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    小浜城址の桜 (戦国政宗桜)

    巨木の写真

    撮影日:2024.04.13 【01】室町時代に大内氏が築いた小浜城本丸跡、奥地に根差す一本の大桜 戦国政宗桜-01
    【02】 戦国政宗桜-02
    【03】 戦国政宗桜-03
    【04】 戦国政宗桜-04
    【05】 戦国政宗桜-05

    巨木の基本情報

    巨木の名前 戦国政宗桜 (現地標識)
    樹種 エドヒガン (江戸彼岸)
    幹周 5.00m [3]
    樹高 16.0m [3]
    推定樹齢 不明
    特徴 傾斜地、横枝
    保護指定 不明
    所在地 福島県二本松市小浜下舘
    所在施設 小浜城址 (本丸の範囲の史跡公園)
    撮影日・状態 2024.04.13 : 開花状況は満開、主幹上部の大枝欠損、全体的にみて樹勢は良さそうな様子
    アクセス
    東北本線・二本松ICから約11km
    電車 JR東北本線・二本松駅から約10km
    バス 二本松駅から福島交通の路線バス「岩代支所」行に乗車、最寄りバス停は終点
    参考情報 ■現地解説板
     [1] 小浜城址       :内容は下記雑記の写真06-09を参照
    ■外部ウェブサイト
     [2] 二本松市ホームページ :小浜城址の情報を参考
     [3] 巨樹巨木林データベース:当巨木の登録あり (2000年度の調査記録)
     [4] ウィキペディア    :小浜城について参考
    ■少遠景の記録
     [5] 片倉のナシの木    :市内で同じ小浜地区、小浜城の東、家臣の舘跡に根差すヤマナシ
     [6] 二ツ石稲荷神社の桜  :市内で同じ小浜地区、小浜城の南、出城跡の稲荷に根差す桜
     [7] 東禅寺のめおと杉   :市内で同じ小浜地区、県内最大級の大スギ
     [8] 西念寺の臥龍の松   :市内で同じ小浜地区、巨大な盆栽のような風雅なゴヨウマツ
     [9] 住吉神社の夫婦スギ  :市内の太田地区、住吉城 (四本松城) の後に残る御神木
     [10] 二本松城の松と桜   :市内の中心部、城内の様子と笠松と桜

    巨木と雑記

     二本松市の南東部を占める東安達 (旧岩代町)。 この地域の代表的な史跡が、小浜地区にある小浜城址 [1][2][4] でしょう。 起源は室町時代の初期、大内氏により築かれた山城。 西に開口した馬蹄形に、尾根上に曲輪が連なる堅牢な山城でした。 本丸跡は史跡公園として整備保存。 曲輪の形がよく残り、入口には石垣、周囲には堀切の跡など見られる。 そしてこの城址は、高台にある好展望地であり、桜の名所としても知られています。

     桜に包まれた本丸跡。 その北端には一本の見事な大桜、戦国政宗桜が根差しています。 戦国武将の名を冠する由来。 それは天正13年 (1585) から翌年まで、伊達政宗が居城したことに由来するらしい。 二本松城 [10] を攻める間の在陣。 時代は下って江戸時代の寛永4年 (1627)、小浜城は廃城に。 その後、風流を愛する誰かが植えたのかもしれない。 現在、小浜城は桜の名所ともなり、政宗桜がその格調を高めています。 ちなみに、本丸から谷を挟んで南の丘上。 そこは出城の跡であり、二ツ石稲荷神社 [6] と桜があります。 よい場所なので立ち寄ってみてください。

    cm-小浜城址-01 【01】小浜城址、本丸の入口前。ここに石垣の一部が残っている。
    【02】 cm-小浜城址-02
    【03】 cm-小浜城址-03
    【04】 cm-小浜城址-04
    【05】 cm-小浜城址-05
    【06】 cm-小浜城址-06
    【07】 cm-小浜城址-07
    【08】 cm-小浜城址-08
    【09】 cm-小浜城址-09



     ここで小浜城の歴史について [1][2][4] 。はじまりは室町初期の応永年間 (1393-1428)。 当地を領した大内氏の初代は晴継。 若狭国 (福井県) の小浜から移り、東安達を統治する石橋氏の家臣となる。 文明3年 (1471)、子の宗政により小浜城が築城。 故郷に地形が似ていることから、城名と地名を小浜と定めたと伝わる。 また、南に約2kmほど離れたところにあった、宮森城 (地図リンク) を支城として改築。 小浜城は下舘、宮森城は上舘と呼ばれ、 両城の間に城下町が形成されていったそうです。

     戦国時代の永禄11年 (1568)、 小浜城主の大内義綱は、戦国大名の田村氏に内通。 主君の四本松城主 [9] である石橋尚義を追放し、東安達を支配下とせしめた。 子の定綱の代になると、田村氏と敵対していた蘆名氏の旗下へ。 また、蘆名氏と同盟関係にある、伊達氏にも従い領地を守る。 一方で田村氏とは和睦せずに敵対を続けた。 その後、周囲の状況は大きく変化します。

     天正12年 (1584)、蘆名氏の当主である盛隆が暗殺され、主家は混迷。 同年、伊達氏当主は政宗となり、田村氏当主の清顕の娘、愛姫が正室となる。 そして蘆名氏と伊達氏の関係は悪化してきた。 大きな選択のとき、大内定綱は伊達政宗に臣従を誓う。 しかし翌天正13年には離反。 これは田村氏と対立してきたことに関係ありそう。 同年、政宗は小浜城を進攻して制圧するも、定綱は蘆名氏のもとへ逃れる。 政宗は天正14年まで、二本松城包囲戦のため滞陣しました。

     天正19年 (1591) 以降、豊臣秀吉の奥州仕置により、 会津は蒲生氏郷の領地となり、小浜城は蒲生氏の支城となる。 そして江戸時代の寛永4年 (1627) に廃城となりました。 おわりに大内定綱のその後。 天正16年 (1588)、伊達氏と蘆名氏の合戦 (郡山合戦) が起こる。 このとき、なんと定綱は調略により伊達氏に帰参。 定綱は戦功を挙げ、蘆名氏の軍勢は敗走しました。 やがて定綱は伊達家に忠義を尽くして重臣となり、その血筋は存続。 戦国政宗桜の石碑「宮森家祖大内氏城跡」は子孫の方の建立です。