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雀神社の大欅
巨木の写真
巨木の基本情報
巨木の名前 | 雀神社の大欅 [1] |
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樹種 | ケヤキ (欅) | |||
幹周 | 8.80m [1][4][5] | |||
樹高 | 25.0m [1][4], 20.0m [5] | |||
推定樹齢 | 不明 | |||
特徴 | 南北に並ぶ2本の株立ち | |||
保護指定 | 古河市指定天然記念物 | |||
所在地 | 茨城県古河市宮前町 | |||
所在施設 | 雀神社 | |||
撮影日・状態 | 2022.06.26 : 樹容に大きな変化なし、古木だが盛夏で青々と樹冠を茂らせている 2014.10.29 : 南側の株は枯死し樹脂で固め覆われている、北株は根本に空洞があるようだが樹勢良し | |||
アクセス | ||||
車 | 東北道・加須ICから約15㎞、東北道・館林ICから約14㎞、圏央道・境古河ICから約16㎞ | |||
電車 | JR古河駅の西口から約2㎞、路線バス「ぐるりん号」を利用可 | |||
バス | ぐるりん号の西コース、雀神社前バス停で下車 | |||
参考情報 | ■現地解説板 [1] 雀神社の大欅 :内容は上記巨木の2014年の写真03を参照 [2] 雀神社の由緒 :内容は下記雑記の写真03を参照 [3] 遷座・増修築の記念碑 :内容は下記雑記の写真13を参照 ■外部ウェブサイト [4] 古河市ホームページ :雀神社と当巨木および路線バスの情報あり [5] 巨樹巨木林データベース :当巨木の登録あり (2000年度の調査記録) [6] 古河史楽会 :古河城の詳細な情報あり、曲輪図も公開 (古地図画像やPDFなど) [7] 今昔マップ :埼玉大学教育学部教授、谷謙二氏の新旧の地図を比較閲覧できるサイト ■少遠景の記録 [8] 本町八幡神社の大イチョウ:古河駅西口の市街地、古河市で最大のイチョウ [9] 小蓋宮の大欅 :古河駅東口の市街地、単幹では古河市で最大のケヤキ [10] 鴻巣の一本榎 :古河公方公園にあるエノキ巨木 |
巨木と雑記.巨木に包まれた古河城下の総鎮守
古河駅から西の市街地、渡良瀬川に接して鎮座する雀神社。 古河市は室町時代の後期に関東の覇権を握った、古河公方の本拠でした。 初代は第5代鎌倉公方であった足利成氏。 幕府に反旗して古河へ移り、新たな都を当地に拓き、古河市の礎となる。 そして雀神社は古河城下の総鎮守とされ、江戸時代になっても歴代藩主から崇敬されてきたのです。 [2][4] 雀神社の巨木に包まれた広大な社叢。 参道入口には門番のような御神木、2対の大ケヤキがそびえ立っています。 向かって左側が市内最大の巨木。 根本から双幹の株立ちで片方は枯死しているが、残された方の樹勢は良い。 隆起肥大した根本か際立って見える、背後から見仰ぐ姿は特に圧巻です。 また、向かって右側の大ケヤキも、幹周5mほどある立派な巨木。 そして境内奥、本殿背後にもケヤキ大木が数本、最大のものは幹周4mほどあります。 ケヤキ以外には、イチョウ、ムクノキ、スダジイなどの大木も生育。 一周すれば素晴らしい森林浴も体感できる鎮守の杜です。以下境内の様子。
巨木と雑記.雀神社の来歴
雀神社の由緒 [2][4] について。 祭神は大己貴命 (大国主命)、少彦名命、事代主命の三柱。 貞観年間 (859~876) の頃に出雲大社より勧請したとの伝承。 珍しい社名の由来は、 「国鎮めの神」を祀ることから「鎮宮」などと呼ばれそれが訛ったこと。 または当地が「雀が原」と呼ばれたことに由来すると考えられるそうです。 室町後期の康正元年 (1455)、足利成氏が初代の古河公方となる。 以後、歴代の古河公方から古河城下の鎮守として崇敬。 江戸時代には歴代の古河藩主から崇敬された。 幕府から朱印地を与えられ、朱印状のうち9通が現存。 現在の社殿 (拝殿・幣殿・本殿) は慶長10年 (1605)、藩主の松平丹康長による造営。 それ以前の雀神社は、古河城内に鎮座していたそうです (後述)。 ここで古河城について。 現在、遺構は殆ど残っていません。 本丸と周辺の曲輪は、改修された渡良瀬川の堤防と河川敷として消失。 渡良瀬川を利用した外濠が囲む主要な曲輪は、 北は県道9号線あたりから、南は新三国橋 (国道354) まで伸びていたらしい。 本丸の位置は、雀神社から約1.5㎞ほど南の堤防上にあったようで、現地に石碑があります (地図リンク) 。なお、詳しい曲輪図は古河史楽会 [6] のサイトで閲覧可能。 ちなみに雀神社は、本丸から三之丸を挟んで北、桜町曲輪に鎮座していたが、 城の拡張工事により現在地に遷座したそうです。
巨木と雑記.昭和の遷座
雀神社は近代にも遷座 [3] していたことを知り驚きました。 昭和28年 (1953)、渡良瀬川の河川改修工事にともなう遷座です。 利根川へ合流するまでに、複雑な蛇行を繰り替えす流路を整え、堤防と河川敷を増築。 さらに洪水を流入させる渡良瀬遊水地を造成。 この大規模工事の過程で、境内西側を高い堤防が貫くことになりました。 このため境内地の一部を失い、社殿を50mほど移築することを余儀なくされたのです。 この苦難を氏子崇敬者の方々が一丸となって乗り越え、遷座の大事業を成し遂げた。 河川改修工事前の境内地の範囲が気になり、 今昔マップ [7] で調べてみました。 明治40年と現在の国土地理院地図を比較。 堤防の位置を含めて、今よりも広大な境内地を有していたことが分かりました。 以下参考画像で、最後は古河城周辺。
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