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    沼田城址の御殿桜

    巨木の写真

    撮影日 (2013.04.13 / 2024.04.27) 【01】本丸の西櫓台跡に根差す老桜、城の歴史を物語る 沼田城址の御殿桜-01
    【02】 沼田城址の御殿桜-02
    【03】 沼田城址の御殿桜-03
    【04】 沼田城址の御殿桜-04
    【05】 沼田城址の御殿桜-05
    【06】 沼田城址の御殿桜-06
    【07】 沼田城址の御殿桜-07
    【08】 沼田城址の御殿桜-08
    【09】 沼田城址の御殿桜-09

    巨木の基本情報

    巨木の名前 御殿桜 [2]
    樹種 エドヒガン (江戸彼岸)
    幹周 4.10m [3]
    樹高 16.5m [3]
    推定樹齢 400年 [2][3]
    特徴 傾斜地、地上3m付近から分岐し立ち昇る
    保護指定 沼田市の巨樹巨木、昭和51年 (1976)
    所在地 群馬県沼田市西倉内町
    所在施設 沼田城址 (沼田公園)
    撮影日・状態 2024.04.27 : 新緑、樹容に目立つ変化なし、2020年度より頑丈な支柱が設置、接近不可
    2013.04.13 : 開花状況は満開、一部の大枝の欠損跡あり、全体的にみて樹勢は良さそう
    アクセス
    関越道・沼田ICから約4km
    電車 JR上越線・沼田駅から約1km
    参考情報 ■現地解説板
     [1] 西櫓台の石垣と石段  :内容は下記雑記の写真04を参照
    ■外部ウェブサイト
     [2] 沼田市ホームページ  :当桜の情報あり、沼田城址についての詳細も参照
     [3] 群馬県緑化推進委員会 :サイト内で県内の巨木も紹介している
     [4] 巨樹巨木林データベース:当桜は未登録あり (2024年4月時点)
    ■少遠景の記録
     [5] 沼田須賀神社の大ケヤキ:市街地中心部、沼田の祇園祭をつかさどる鎮守、県内最大級のケヤキ
     [6] 発知のヒガンザクラ  :下発知町の地区、周囲はリンゴ畑、県内最大級のエドヒガン
     [7] 荘田神社の大イチョウ :市街地から北、田畑に囲まれたところ、県内最大級のイチョウ
     [8] 薄根の大クワ     :市街地から北、日本一のヤマグワ (私有地でも見学可)

    巨木と雑記

     沼田市街の中心部に面した沼田公園 [2] 。市内を代表する大きな公園であり、桜に包まれたお花見スポットでもあります。 もとは沼田城が在ったところで、 北を流れる薄根川段丘の崖を背にした要害。 戦国末期から江戸初期にかけて、城主となった真田氏により大改築。 本丸には五重の天守閣がそびえ建ち、周りは幾重もの濠と曲輪が堅めた。 大手門の場所は、沼田小学校の正門付近に在ったらしい。 現在の公園化された範囲は、主に本丸と二之丸の跡地です。

     沼田城址の本丸。 桜やツツジなどの花木に包まれ、中央では広い花壇が賑やか。 今は美しい庭園となったその奥には、基部を石垣が覆う土塁があります。 ここは西櫓台 [1] が建っていたところで、上には一本の風流なエドヒガンが根差している。 城の趨勢を見守ってきた老桜。 その姿には、どこか健気さが感じられます。 高台で咲き誇り威厳を示し、石垣に根を張りかたちを留める。 この御殿の歴史を、今でも守り続けている桜です。

    cm-沼田城址-01 【01】真田氏時代の城郭のイメージ画。 本丸の北東端に五重の天守閣が建っていたらしい。 本丸には御殿桜らしき姿も描かれている。
    【02】 cm-沼田城址-02
    【03】 cm-沼田城址-03
    【04】 cm-沼田城址-04
    【05】 cm-沼田城址-05
    【06】 cm-沼田城址-06
    【07】 cm-沼田城址-07
    【08】 cm-沼田城址-08
    【09】 cm-沼田城址-09
    【10】 cm-沼田城址-10
    【11】 cm-沼田城址-11
    【12】 cm-沼田城址-12
    【13】 cm-沼田城址-13



     おわりに沼田城 [2] の歴史について。 鎌倉時代から当地を領してきた沼田氏の第12代、 沼田顕泰が天文元年 (1532) 頃に築城したと伝わる。 利根川・薄根川・片品川が交わる盆地の中央に位置し、 背後から関東を狙う要衝にして、高い段丘の崖が守る堅城。 上杉氏・武田氏・後北条氏らの戦国大名が争奪戦を繰り広げた。 天正8年 (1580)、武田勝頼の旗下であった真田昌幸が沼田城を攻略。 沼田景義は奪還を試みるも、昌幸により謀殺されて沼田氏は断絶。 以後、北条氏による侵攻を防ぎ続けるが、 天正17年 (1589)、豊臣秀吉の裁定により沼田城は北条氏に引き渡る。 続いて同年、北条氏は昌幸の支城である名胡桃城を攻略。 これが秀吉に小田原征伐の大義名分を与え、翌天正18年に北条氏は滅亡。 真田氏に沼田城は戻り、昌幸は信濃の上田に移る。 子の信幸が城主となり城郭を大改築。 慶長2年 (1597)年の頃には、五重の天守が完成したとされます。

     その後の沼田城は、真田信幸から第5代目の信利まで、真田氏の居城となり、 約100年に渡り沼田領を治めた。 天和元年 (1681)、信利は失政と江戸領国橋の普請の遅れを理由に改易。 城は破却され沼田藩は幕府天領となる。 元禄16年 (1703)、本多正永が入封し沼田藩を復興。 破却された沼田城は、濠と土塁を再整備し、三之丸に藩庁が置かれた。 以後、黒田氏や土岐氏が入封し、明治維新を迎えて廃城となる。 大正5年 (1916)、旧沼田藩士の子である久米民之助氏が、 荒廃した城址を私財を投じて整備。 大正15年 (1926) に沼田町に寄付され、公園となり現在に至ります。