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    間々田八幡宮の社叢

    巨木の写真

    撮影日:2021.12.13 【01】広大な間々田八幡宮の社叢、拝殿の左手前に御神木のスギ 間々田八幡宮の社叢-01
    【02】 間々田八幡宮の社叢-02
    【03】 間々田八幡宮の社叢-03
    【04】 間々田八幡宮の社叢-04
    【05】 間々田八幡宮の社叢-05

    巨木の基本情報

    巨木の名前 御神木 [4]
    樹種 スギ (杉)
    幹周 不明 (約4m)
    樹高 不明 (15m以上)
    推定樹齢 500年 [4]
    特徴 中腹より双幹 (片方は欠損)
    保護指定 小山市指定天然記念物
    所在地 栃木県小山市間々田
    所在施設 間々田八幡宮
    撮影日・状態 2021.12.13 : 落雷による損傷、幹に亀裂と中腹より分岐した双幹の片方を欠損、根本はしっかりしている
    アクセス
    東北自動車道・佐野藤岡ICから約18㎞
    電車 JR間々田駅から約3㎞
    参考情報 ■現地解説板
     [1] 間々田八幡宮由緒    :内容は下記の写真03を参照
     [2] 間々田八幡宮のコナラ  :内容は下記の写真06を参照
    ■外部ウェブサイト
     [3] 巨樹巨木林データベース :当社叢の一部の登録あり (2000年度の調査記録)
     [4] 間々田八幡宮ホームページ:由緒、祭礼、境内案内など参考
    ■少遠景の記録
     [5] 須賀神社のケヤキ    :小山市内、祇園城の守護神でもあった古社、境内に複数の大ケヤキ
     [6] 愛宕神社のケヤキ    :小山市内、須賀神社に近い、市内最大のケヤキ
     [7] 祇園城跡の公孫樹    :小山市内、小山氏が築いた主城の跡、城山公園として整備されている
     [8] 鷲神社のシラカシ    :小山市内、小山氏が築いた鷲城の跡、遺構や神社が残っている
     [9] 国府神社のケヤキ    :小山市内、古墳に建つような神社、根本が雄大なケヤキ

    巨木と雑記.小山市を代表する豊かな樹叢をもつ古社

     小山市の南部、国道4号線沿いに位置する地区の間々田。 ここは日光街道の間々田宿があったところで、 当地の鎮守が地名の由来にもなっている間々田八幡宮です。 創建から1000年以上の歴史を有する古社。 毎年5月5日に行われる例祭の「じゃがまいた」という蛇祭りは有名で、国の重要無形民俗文化財。 長さ15メートル以上ある蛇 (藁材) が数体つくられ、 氏子の方々が担いで練り歩き、八幡宮に集結する様は壮観です。 [1][4]

     間々田の鎮守は小山市にある社寺の中でも、特に広く豊かな樹叢を持っています。 境内地は約2万坪もの広さがあり、東側の一部は「ひょうたん池」を囲む公園として整備。 樹木はスギ以外に広葉樹も多く、コナラのうち3本の大木は市の天然記念物。 まちなかで森林浴ができる、じつに素晴らしい景観の古社です。 以下は境内の様子、御神木のスギ以外の巨木です。 [1][4]

    cm-間々田八幡宮-01 【01】拝殿手前の参道石段の両脇に配された狛犬。個性的な表情。笑顔?
    【02】拝殿 cm-間々田八幡宮-02
    【03】解説板 cm-間々田八幡宮-03
    【04】コナラ (イ) cm-間々田八幡宮-04
    【05】コナラ (イ) cm-間々田八幡宮-05
    【06】コナラ解説板 cm-間々田八幡宮-06
    【07】コナラ (ロ) cm-間々田八幡宮-07
    【08】コナラ (ロ) cm-間々田八幡宮-08
    【09】コナラ (ハ) cm-間々田八幡宮-09
    【10】コナラ (ハ) cm-間々田八幡宮-10
    【11】モミ cm-間々田八幡宮-11
    【12】モミ cm-間々田八幡宮-12
    【13】ひょうたん池 cm-間々田八幡宮-13
    【14】シラカシ cm-間々田八幡宮-14
    【15】プラタナス cm-間々田八幡宮-15
    【16】プラタナス cm-間々田八幡宮-16
    【17】弁天島 cm-間々田八幡宮-17

    巨木と雑記.間々田八幡宮の由緒

     神社由緒について [1][4]。 創建年代は天平年間 (729-749) とされる。 平安時代の天慶年間 (938-947) の頃、鎮守府将軍を務めた藤原秀郷より供田の寄進を受ける。 秀郷は天慶2年に起きた平将門の乱を勅命により平定。 その行軍中、当社にて戦勝祈願したので、結願による報謝であったという。 以後、里人が飯田 (まんまだ) の里と呼称し、社名および地名の由来となった。

     鎌倉時代の文治5年 (1089)、源頼朝は奥州藤原氏と合戦に臨む際、当社にて戦勝祈願。 先の藤原秀郷に倣い、当社の霊験を頼んだという。 このとき頼朝が植えた伝わる老松は、明治38年 (1905) まで生き残っていたという。 ( 場所は二之鳥居の近くだった )

     江戸時代に当地は、日光街道の宿場町として賑わう。 日本橋から日光までの中間地 (11番目) であることから、地名を間々田と改められた。 当時代は朝廷から毎年、日光東照宮へ例幣使が送られていた。 この勅使は必ず当社へも参拝することが習わしであったという。 江戸末期の享和年間 (1801-1804) に大火に遭い、社殿は嘉永4年 (1851) に再建。 現在も広い境内地が守り伝えられ、一部は公園として市に貸与、市民の憩いの場ともなっている。