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    中倉山の孤高のブナ

    巨木の写真

    撮影日(2018.10.22) 【01】足尾の再生の象徴ともいえる松木渓谷を見下ろす孤高のブナ 中倉山の孤高のブナ-01
    【02】 中倉山の孤高のブナ-02
    【03】 中倉山の孤高のブナ-03
    【04】 中倉山の孤高のブナ-04
    【05】 中倉山の孤高のブナ-05
    【06】 中倉山の孤高のブナ-06
    【07】 中倉山の孤高のブナ-07
    【08】 中倉山の孤高のブナ-08
    【09】 中倉山の孤高のブナ-09
    【10】 中倉山の孤高のブナ-10
    【11】 中倉山の孤高のブナ-11
    【12】 中倉山の孤高のブナ-12
    【13】 中倉山の孤高のブナ-13

    巨木の詳細情報

    巨木の名前 中倉山の孤高のブナ(非公式)
    樹種 ブナ(橅)
    幹周 不明(約3m?)
    樹高 不明
    推定樹齢 不明(約100年?)
    特徴 尾根上の独立木、若木の印象
    保護指定 不明(根本に柵)
    所在地 栃木県日光市足尾町
    所在施設 中倉山(山頂のすぐ西尾根)
    撮影日・状態 2018.10.22 : 目立つ損傷はなく樹勢は良い.周囲の山岳風景を含めた佇まいが素晴らしい.
    アクセス
    日光宇都宮道・清滝ICから約19.5km(銅親水公園の駐車場まで)
    電車 渡良瀬渓谷鉄道・間藤駅から約3km(銅親水公園の入口まで)
    バス 間藤駅から日光市営バスの銅親水公園入口まで乗車
    参考情報 ■足尾環境学習センタ-展示資料
     [1] 足尾銅山精錬所の写真 :明治18年度に撮影されたもの
     [2] 煙害区域図      :松木川を中心とした渓谷の広範囲におよぶ
     [3] 松木の歴史年表    :銅山の煙害で甚大な被害を受けた松木集落の歴史
     [4] 銅山と足尾町の歴史年表:江戸~明治~大正~昭和、銅山を中心にした足尾の歴史
     [5] 植樹の写真(1)    :2001年4月22日
     [6] 植樹の写真(2)    :2004年4月25日、2005年4月24日
    ■外部ウェブサイト
     [7] 巨樹巨木林データベース:登録なし(2019年12月時点)
     [8] 栃木県公式ホームページ:日光土木事務所の管内紹介ページに銅山と足尾町の歴史あり
     [9] ヤマケイオンライン  :中倉山の紹介に孤高のブナの記述あり
    ■少遠景の記録
     [10] 登山・中倉山     :孤高のブナへの詳しいアクセスと山頂の展望の様子はこちら
     [11] 登山・日光男体山   :男体山の山頂からは足尾の山々も見えていた?
     [12] 登山・日光中禅寺湖一周:奥日光の紅葉を湖畔一周で満喫!巨木の写真も多い

    巨木と雑記.眺望と一本の木を求めに行く中倉山への登山

     足尾山地の松木渓谷右岸にそびえる山塊のひとつが中倉山。 その尾根には孤高のブナと呼ばれる一本の大木が立っています。 日光と足尾の山々を見渡せる眺望の尾根歩きと、壮大な山岳風景を背景に立つブナを求め、中倉山へ登りました。 駐車場やバス停のある銅親水公園から登山口まで約50分、登山口から山頂まで約1時間30ほど。 道中の詳細は登山記録 [10] を参照ください。

    巨木と雑記.銅山と足尾の歴史

     中倉山に登った後は、銅親水公園にある足尾環境学習センターへの見学。 その後は足尾銅山の産業遺産群を巡りました(詳細は登山記録 [10] )。 少し思うところがあったので、銅山と足尾の歴史について簡単にまとめてみます。
     備前楯山の麓に拓かれた足尾銅山は、江戸期から国内を代表する銅山のひとつでした。 明治期からは採掘と精錬技術の近代化により、生産量が飛躍的に増大。 明治20年代には国内の銅産量の約40%を足尾が占め(年間6000トン以上)、 県下第2位の人口が密集する銅山の町となりました。 明治中期ごろから銅山の公害が問題化。 精錬所からの煙害により広範囲の山林が枯死し農地が汚染。 地元の松木・久蔵・仁田元の3村は、壊滅的な被害を受け廃村。 更に山林が坑道の建材など伐採され、一帯の山域は丸裸の状態となりました。 こうした結果、土砂崩れや洪水が頻発。 そして銅山の汚染水が下流の渡良瀬川流域にも広く浸透する事態に。 この一連の甚大な公害は、足尾銅山鉱毒事件として田中正造が主導し国に問題提起。 明治29年から明治36年までの5回、鉱毒予防工事が国から命令されたそうです。 昭和期に入ってからは、砂防ダムの建設に、河川流路や山腹の補強が進み、鉱毒の被害も沈静化へ。 そして昭和48年(1973)に足尾銅山は閉山されました。 [2][3][4][8]
     現在でも備前楯山、赤倉山、松木渓谷など一帯の山域からは、 露出した山肌、疎らな山林など、当時の爪痕が見られます。 訪れる前はもっと荒涼とした景観を想像していたのですが、予想よりも多くの緑に覆われている。 大規模な植林の作業が継続的に行われています。[5][6]

    cm足尾銅山精錬所跡-01 現在の足尾精錬所跡。施設の一部は残されている。 左奥に見えるのが備前楯山の山塊。
    足尾精錬所 cm足尾環境学習センター-02
    煙害区域図 cm足尾環境学習センター-03
    松木の歴史 cm足尾環境学習センター-04
    足尾の歴史 (1) cm足尾環境学習センター-05
    足尾の歴史 (2) cm足尾環境学習センター-06
    足尾の歴史 (3) cm足尾環境学習センター-07
    植樹の様子 (1) cm足尾環境学習センター-08
    植樹の様子 (2) cm足尾環境学習センター-09

    巨木と雑記.孤高のブナの感想

     孤高のブナは巨木といえるほど立派な大きさはありませんが、その立姿には強く胸を打つものがあります。 日光と足尾の山々を見渡す尾根の上、壮大な山岳風景を背に一本で立つ姿は、絵画のように美しい。 そして足尾銅山の煙害から生き残ったという時代背景が、このブナの姿をより力強く格調高いものにしています。 足尾環境学習センターの職員の方の話では、当時は中禅寺湖まで煤煙が届くこともあったとか。 中倉山は煙害の被害が大きかった区域 [2] で、風当たりの強い尾根上に立つブナは、どれほどの苦境にあったことか。 足尾の再生を象徴する荘厳な立姿のブナ。新緑の時期の再訪を誓いました。