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粟野のカヤ
巨木の写真













巨木の基本情報
巨木の名前 | 粟野のカヤ [1] |
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樹種 | カヤ (榧) | |||
幹周 | 6.60m [1], 5.75m [2], 5.90m (実測) | |||
樹高 | 20.5m [1], 20.0m [2] | |||
推定樹齢 | 1100年 [1] | |||
特徴 | 単幹、傘状の樹冠 | |||
保護指定 | 栃木県指定天然記念物 | |||
所在地 | 私有地 | |||
所在施設 | 栃木県鹿沼市口粟野字新宿 | |||
撮影日・状態 | 2025.01.20 : 一部の枝先に枯損、広大な樹冠を茂らせ樹勢良好、南側の下枝は地面付近まで垂れる | |||
アクセス | ||||
車 | 東北道・栃木ICから約17km、鹿沼ICから約14km | |||
電車 | 栃木市駅 (東武日光線・JR両毛線) から約20km、新鹿沼駅から約11km、JR鹿沼駅から約13km | |||
参考情報 | ■外部ウェブサイト [1] 鹿沼市ホームページ :当巨木と粟野城址の情報あり [2] 巨樹巨木林データベース :当巨木の登録あり (2000年度の調査記録) [3] 栃木市観光協会 :八百比丘尼公園と伝説の参照 ■少遠景の記録 [4] 叶台のカヤ :鹿沼市の口粟野、広い墓地に根差す県内最大級のカヤ [5] 天満星宮神社のスギ :鹿沼市の下粕尾、田園の中の鳥居と社叢が県道からも目立つ [6] 金剛寺のケヤキと皆川城址:栃木市、粟野城を攻めた皆川氏の居城も紹介 |
巨木と雑記.粟野のカヤ
旧粟野町の中心部の辺り、山城の粟野城址から東の住宅地。 ここに根差している巨木が粟野のカヤ [1] 。風格極まる佇まい、県内を代表するカヤの一本です。 古木ながら樹勢良好で広大な樹冠を茂らし、南側の根本に稲荷社が安置。 約150年ほど昔に伏見稲荷大社より勧請。 このカヤには、正一位榧木稲荷大明神という位が授与されたそうです。 総社も讃えたお稲荷様の御神木。 粟野のカヤには、八百比丘尼の手植えという伝承 [1] があるそうです。そして当地から南に離れた大倉山の麓には、 八尾比丘尼の生誕地と伝わる八百比丘尼公園 [3] もあります。昔々、土豪の姫君であった八重姫が、 ある出来事から不老不死の肉体となる。 やがて尼僧となり、人助けの旅の生涯であったという。 公園には八百比丘尼を祀る御堂あり。 気になる人は訪れてみてください (地図リンク)。




巨木と雑記.粟野城址
粟野のカヤの側から西、旧粟野高校 (2011年閉校) の校庭越しに見える小高い丘。 その真上には東屋のようなものが建っている。 そこは鹿沼市指定史跡である粟野城址 [1] の本丸跡。見晴らしが素晴らしく、昭和の大戦時には防空監視哨が築かれました。 現在、城の遺構と麓の広範囲にわたり、あわの城山公園として整備。 2万株ものヤマツツジが植栽され、4月下旬頃には美しい花園となり賑わうところです。 カヤの拝観と併せて訪れてみてください。(城の歴史については後述)

















おわりに粟野城址の歴史 [1] について。はじめの城主は平安時代の武将、 足利忠綱とする説があるそうです。 暦応元年 (1338) の頃、平野将監範久が城主であった。 当時、小山氏と宇都宮氏に侵攻された末、佐野氏の傘下となり対抗した。 天正16年 (1588)、小山氏一門である皆川氏の5代当主、皆川広照の軍勢により落城。 このとき城代の平野久国と、皆川氏大将の斎藤秀隆が討死する激戦となった。 後に皆川氏家臣の落合徳雲入道が城代となる。 そして天正18年 (1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの渦中にて。 皆川氏は後北条氏の傘下であった為、秀吉の連合軍に制圧され廃城となりました。 時代は下って昭和16年 (1941)、大戦時の本土空襲が始まる前年。 日光から東京を結ぶ区間の防空監視体制を強化するため、 栃木県に宇都宮監視隊本部が設立。 県内の約23地点に監視哨が置かれ、その一つが粟野城址に置かれました (口粟野防空監視哨)。 東京や宇都宮を空襲した、B29などの爆撃機を監視していたそうです。 平成24年 (2012)、公益社団法人土木学会より土木遺産に指定。 今日の粟野城址は、恒久平和を考えさせる遺構を併せ持ち、 ツツジの花園としても親しまれれています。
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