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  • 巨木TOP / 栃木 / 粟野のカヤと粟野城址

    粟野のカヤ

    巨木の写真

    撮影日:2025.01.20 【01】伏見稲荷大社から正一位榧木稲荷大明神という位を賜ったカヤ老樹 粟野のカヤ-01
    【02】 粟野のカヤ-02
    【03】 粟野のカヤ-03
    【04】 粟野のカヤ-04
    【05】 粟野のカヤ-05
    【06】 粟野のカヤ-06
    【07】 粟野のカヤ-07
    【08】 粟野のカヤ-08
    【09】 粟野のカヤ-09
    【10】 粟野のカヤ-10
    【11】 粟野のカヤ-11
    【12】 粟野のカヤ-12
    【13】 粟野のカヤ-13

    巨木の基本情報

    巨木の名前 粟野のカヤ [1]
    樹種 カヤ (榧)
    幹周 6.60m [1], 5.75m [2], 5.90m (実測)
    樹高 20.5m [1], 20.0m [2]
    推定樹齢 1100年 [1]
    特徴 単幹、傘状の樹冠
    保護指定 栃木県指定天然記念物
    所在地 私有地
    所在施設 栃木県鹿沼市口粟野字新宿
    撮影日・状態 2025.01.20 : 一部の枝先に枯損、広大な樹冠を茂らせ樹勢良好、南側の下枝は地面付近まで垂れる
    アクセス
    東北道・栃木ICから約17km、鹿沼ICから約14km
    電車 栃木市駅 (東武日光線・JR両毛線) から約20km、新鹿沼駅から約11km、JR鹿沼駅から約13km
    参考情報 ■外部ウェブサイト
     [1] 鹿沼市ホームページ   :当巨木と粟野城址の情報あり
     [2] 巨樹巨木林データベース :当巨木の登録あり (2000年度の調査記録)
     [3] 栃木市観光協会     :八百比丘尼公園と伝説の参照
    ■少遠景の記録
     [4] 叶台のカヤ       :鹿沼市の口粟野、広い墓地に根差す県内最大級のカヤ
     [5] 天満星宮神社のスギ   :鹿沼市の下粕尾、田園の中の鳥居と社叢が県道からも目立つ
     [6] 金剛寺のケヤキと皆川城址:栃木市、粟野城を攻めた皆川氏の居城も紹介

    巨木と雑記.粟野のカヤ

     旧粟野町の中心部の辺り、山城の粟野城址から東の住宅地。 ここに根差している巨木が粟野のカヤ [1] 。風格極まる佇まい、県内を代表するカヤの一本です。 古木ながら樹勢良好で広大な樹冠を茂らし、南側の根本に稲荷社が安置。 約150年ほど昔に伏見稲荷大社より勧請。 このカヤには、正一位榧木稲荷大明神という位が授与されたそうです。 総社も讃えたお稲荷様の御神木。

     粟野のカヤには、八百比丘尼の手植えという伝承 [1] があるそうです。そして当地から南に離れた大倉山の麓には、 八尾比丘尼の生誕地と伝わる八百比丘尼公園 [3] もあります。昔々、土豪の姫君であった八重姫が、 ある出来事から不老不死の肉体となる。 やがて尼僧となり、人助けの旅の生涯であったという。 公園には八百比丘尼を祀る御堂あり。 気になる人は訪れてみてください (地図リンク)。

    cm-粟野のカヤ-01 【01】粟野のカヤの根本に安置される稲荷社。約150年ほど前に勧請された。
    cm-粟野のカヤ-02 【02】稲荷社覆屋の柱に付けられた金属の棟札。 奉納榧木稲荷大明神。この社は昭和6年 (1931) に建立されたようだ。
    cm-粟野のカヤ-03 【03】カヤと社の間には石塔のようなものがある。稲荷神の石塔だろうか。
    cm-粟野のカヤ-04 【04】田畑であったカヤの周囲は太陽光パネルが覆うようになった。

    巨木と雑記.粟野城址

     粟野のカヤの側から西、旧粟野高校 (2011年閉校) の校庭越しに見える小高い丘。 その真上には東屋のようなものが建っている。 そこは鹿沼市指定史跡である粟野城址 [1] の本丸跡。見晴らしが素晴らしく、昭和の大戦時には防空監視哨が築かれました。 現在、城の遺構と麓の広範囲にわたり、あわの城山公園として整備。 2万株ものヤマツツジが植栽され、4月下旬頃には美しい花園となり賑わうところです。 カヤの拝観と併せて訪れてみてください。(城の歴史については後述)

    cm-粟野城址 (あわの城山公園)-01 【01】あわの城山公園の案内図。 東側がヤマツツジで彩られた公園、西側が城址。
    【02】 cm-粟野城址 (あわの城山公園)-02
    【03】 cm-粟野城址 (あわの城山公園)-03
    【04】 cm-粟野城址 (あわの城山公園)-04
    【05】 cm-粟野城址 (あわの城山公園)-05
    【06】 cm-粟野城址 (あわの城山公園)-06
    【07】 cm-粟野城址 (あわの城山公園)-07
    【08】 cm-粟野城址 (あわの城山公園)-08
    【09】 cm-粟野城址 (あわの城山公園)-09
    【10】 cm-粟野城址 (あわの城山公園)-10
    【11】 cm-粟野城址 (あわの城山公園)-11
    【12】 cm-粟野城址 (あわの城山公園)-12
    【13】 cm-粟野城址 (あわの城山公園)-13
    【14】 cm-粟野城址 (あわの城山公園)-14
    【15】 cm-粟野城址 (あわの城山公園)-15
    【16】 cm-粟野城址 (あわの城山公園)-16
    【17】 cm-粟野城址 (あわの城山公園)-17



     おわりに粟野城址の歴史 [1] について。はじめの城主は平安時代の武将、 足利忠綱とする説があるそうです。 暦応元年 (1338) の頃、平野将監範久が城主であった。 当時、小山氏と宇都宮氏に侵攻された末、佐野氏の傘下となり対抗した。 天正16年 (1588)、小山氏一門である皆川氏の5代当主、皆川広照の軍勢により落城。 このとき城代の平野久国と、皆川氏大将の斎藤秀隆が討死する激戦となった。 後に皆川氏家臣の落合徳雲入道が城代となる。 そして天正18年 (1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの渦中にて。 皆川氏は後北条氏の傘下であった為、秀吉の連合軍に制圧され廃城となりました。

     時代は下って昭和16年 (1941)、大戦時の本土空襲が始まる前年。 日光から東京を結ぶ区間の防空監視体制を強化するため、 栃木県に宇都宮監視隊本部が設立。 県内の約23地点に監視哨が置かれ、その一つが粟野城址に置かれました (口粟野防空監視哨)。 東京や宇都宮を空襲した、B29などの爆撃機を監視していたそうです。 平成24年 (2012)、公益社団法人土木学会より土木遺産に指定。 今日の粟野城址は、恒久平和を考えさせる遺構を併せ持ち、 ツツジの花園としても親しまれれています。