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代八幡神社のイチョウ
巨木の写真
巨木の基本情報
巨木の名前 | 代八幡神社のイチョウ (仮) |
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樹種 | イチョウ (公孫樹) | |||
幹周 | 6.40m [2], 6.19m (実測) | |||
樹高 | 20.0m [2] | |||
推定樹齢 | 300年以上 | |||
特徴 | 北に側幹、主幹は地上4m付近で3本に分岐 | |||
保護指定 | 不明 | |||
所在地 | 埼玉県熊谷市代字下諏訪 | |||
所在施設 | 八幡神社 | |||
撮影日・状態 | 2023.10.03 : 目立つ損傷なく樹勢良し、幹のまとまりが南側に偏り、昔は北側に太い側幹が在ったらしい | |||
アクセス | ||||
車 | 東北道:羽生ICから約23km、加須ICから約27km、館林ICから約27km 関越道:東松山ICから約19km、花園ICから約15km | |||
電車 | 熊谷駅 (JR高崎線・JR湘南新宿線・秩父鉄道) から約6km | |||
参考情報 | ■現地解説板 [1] 八幡大神の由緒 :内容は下記雑記の写真01を参照 ■外部ウェブサイト [2] 巨樹巨木林データベース:当巨木の登録あり (2000年度の調査記録) [3] みどり市ホームページ :市指定史跡「伝山田氏及び里見兄弟の墓」を参照 [4] ウィキペディア :高津戸城を参照 ■少遠景の記録 [5] 高城神社のケヤキ :熊谷市の中央地区、熊谷郷の総鎮守、他にケヤキとムクノキの巨木あり [6] 国性寺のカヤ :熊谷市の北部地区で近辺、境内に市内最古とされる板石塔婆あり [7] 長慶寺のイチョウ :熊谷市の北部地区、単幹の凛々しい立姿 [8] 高津戸峡の夫婦イチョウ:群馬県みどり市、景勝地の高津戸峡、その西に高津戸城跡と要害神社 |
巨木と雑記
熊谷市街地から北西、国道17号線と国道407号線が交わる地域の代。 当地の西に鎮座する八幡神社は、旧代村の総鎮守 [1] とされてきた古社です。 社殿の正面にそびえ立つ御神木は、市内で最大となるイチョウ。 樹勢が良く大きな樹冠を広げています。 幹は南側に少し偏りがちで、昔は北側に太い側幹が在ったらしい。 今、その傷跡を覆うように若枝が成長し、不定根も伸ばしている。 そして正面 (東) からの樹容は、その若枝が親指となる、 掌 (てのひら) のように見えて面白い。 強い生命力も感じさせる見事なイチョウです。
おわりに代八幡神社の由緒について。 拝殿の掲示 [1] によると、天正8年 (1580) に里見義次が創建し、 やがて代村の総鎮守となり、明治5年 (1872) に村社に列格した。 この里見義次、元は上州大間々に在り、 天正6年 (1578) に要害山での戦いに敗れ、当地へ落ち延びたという。 要害山とは何処なのか。 どうやら、群馬県みどり市にある景勝地、 渡良瀬川中流域の高津戸峡 [8] 。その右岸の崖上に在った高津戸城らしいのです。 現在、頂上の本丸跡には要害神社 (地図リンク) が建っている。 里見氏と高津戸城について [4] 。高津戸城は元は山田氏の居城であったが、 観応2年 (1351)、桐生氏の侵攻により山田氏は滅ぶ。 その後、桐生氏の家臣である里見氏の居城となる。 天正2年 (1574)、上杉謙信の侵攻により、当主の里見宗連は自刃。 里見一族の勝広 (実堯) が新たな城主となり、 和平のため息子の勝政・勝安を上杉謙信に人質として送る。 しかし、この行為を主君の桐生親綱は、上杉氏への内通と誤認し、 元亀元年 (1570) に勝広は切腹と処せられた。 この顛末には勝広の家臣、石原石見守の謀略があったとされる。 その後、当地域は由良氏の勢力下となり、 家臣となった石原石見守が次の高津戸城主となる。 天正4年 (1576)、里見勝政・勝安の兄弟は、上杉謙信の支援を得て高津戸城を奪還。 しかし、親の仇である石見守は逃れ、 そして由良国繁に攻められて天正6年 (1578)、勝政は戦死、勝安は自刃して果てたという。 代八幡神社を創建した里見義次。 高津戸城主の里見一族であったか。 あるいは事実では生き延びた勝政か勝安か、またはその子供だなんてことがあるかも?。 しかし、里見兄弟の伝承については、同年代の確証ある資料が見つかっていないらしい。 だから後世に創作された可能性があるそうです。 戦国仇討ちロマンチシズム。 なお、青木地区の阿弥陀堂 (地図リンク) には、多数の古い五輪塔があり、みどり市の文化財 [3] に指定されています。 その中には、里見兄弟の五輪塔と伝わるものがあるそうです。
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