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    忍諏訪神社のスダジイと忍城

    巨木の写真

    忍諏訪神社のスダジイ (2021.12.12) 【01】忍城鎮守の御神木、本殿の背後に佇むスダジイ巨木 忍諏訪神社のスダジイ-01
    【02】 忍諏訪神社のスダジイ-02
    【03】 忍諏訪神社のスダジイ-03
    【04】 忍諏訪神社のスダジイ-04
    【05】 忍諏訪神社のスダジイ-05
    【06】 忍諏訪神社のスダジイ-06
    【07】 忍諏訪神社のスダジイ-07
    【08】 忍諏訪神社のスダジイ-08
    【09】 忍諏訪神社のスダジイ-09

    巨木の基本情報

    巨木の名前 忍諏訪神社のスダジイ (仮)
    樹種 スダジイ (すだ椎)
    幹周 不明 (約5.0m)
    樹高 不明 (15.0m以上)
    推定樹齢 500年以上 [3]
    特徴 中腹まで単幹、根元の板状の隆起
    保護指定 不明
    所在地 埼玉県行田市本丸
    所在施設 忍諏訪神社
    撮影日・状態 2021.12.12 : 目立つ損傷なく樹勢良好、樹冠は大きく茂っている、根本近くには立入不可
    アクセス
    東北道・加須ICから約18㎞、関越道・東松山ICから約17㎞、圏央道・桶川加納ICから約20㎞
    (忍諏訪神社に参拝者駐車場なし、駐車場は郷土博物館のものを利用)
    電車 秩父鉄道・行田市駅から約1㎞
    参考情報 ■現地資料
     [1] 諏訪神社・東照宮   :神社由緒について、内容は下記雑記の写真06を参照
     [2] 諏訪の大木      :廃城により伐採された城内の木々について、内容は下記雑記の写真08を参照
     [3] スダ椎        :御神木について、内容は上記巨木の写真04を参照
     [4] 忍城鳥瞰図      :内容は下記雑記の写真02~04を参照
     [5] 文政6年忍城地図    :内容は下記雑記の写真05を参照
    ■外部ウェブサイト
     [6] 巨樹巨木林データベース:当巨木の登録なし (2021年12月時点)
     [7] 行田市ホームページ  :忍城や郷土博物館の情報を参考
     [8] ウィキペディア    :忍城の歴史について参考 (他のサイトよりも内容が簡潔かつ詳しい)
    ■少遠景の記録
     [9] 佐間天神社のケヤキ  :忍城築城時に成田氏が勧請したという神社、隣接する水城公園の紹介も含む
     [10] 前玉神社のイヌマキ  :行田市内、県内最大級のイヌマキ、隣接する埼玉古墳群の紹介を含む
     [11] 真名板薬師堂の公孫樹 :行田市内、イチョウの他に立派な仁王門と前方後円墳も見どころ

    巨木と雑記.忍城は県北で注目すべき観光スポット

     埼玉県の北東部に位置する行田市 [7] 。国内屈指の足袋の産地であり、特別史跡である埼玉古墳群 [10] があることで有名なところ。そして市街中心部には、忍城 [8] という素晴らしい史跡もあります。 戦国時代、当地を支配した成田氏に築かれた難攻不落の堅城。 上杉謙信や豊臣秀吉の侵攻にも耐え抜きました。 2012年の東宝映画「のぼうの城」のモデルにもなり、知名度が高まったことでしょう。 現在の本丸跡には郷土博物館が建てられ、隣には立派な三重櫓が再現されています。 本丸から県道を挟んで北側には、城の守り神であった諏訪神社 [1] が鎮座。 本殿背後には立派なスダジイの御神木があり、城内で現存する最古の巨木。 忍城は県北でも注目すべき観光スポットのひとつです。

    cm-忍城三重櫓-01 【01】東側を通る忍城通りから眺める三重櫓。内部は博物館内から続く連絡通路で立入り見学可能。 本来の建ち位置は、この本丸から東側でなく、三之丸の東側にあった (三之丸跡は宅地化)。

    巨木と雑記.水郷に浮かぶ難攻不落の堅城

     延徳3年 (1491) に成田親泰により築城されたという忍城 [8] 。江戸時代は忍藩の藩庁がおかれ、藩主となる徳川の譜代大名の居城でした。 忍城で往時の形を留めている曲輪は2つ。 博物館の建つ本丸と、諏訪神社境内となっている諏訪曲輪の一部。 本丸から南に連なっていた、二之丸と三之丸は住宅地と学校に。 かつての当地は湿地帯で、広大な池沼を外濠とし、各曲輪の内濠にもその水が引かれていました。 本丸から南東に位置する大きな池 (しのぶ池) は外濠の一部。現在は水城公園 [9] として活かされています。以下、江戸後期の城内鳥瞰図 [4] と曲輪図 [5] です。

    cm-忍城鳥瞰図-02 【02】諏訪神社の境内にある忍城鳥瞰図。 湖に浮かんでいるようかの景観。まるで水攻めされた後のようにも見えてくる…。 曲輪は左上に諏訪曲輪と本丸、その下に二之丸と三之丸。
    cm-忍城鳥瞰図-03 【03】忍城鳥瞰図、本丸部分の拡大。中央が本丸と諏訪曲輪、南側が二之丸。 意外なことに本丸は木々に覆われ建物が見えない。 二之丸の東に二重櫓、太鼓門の側に大杉があった。
    cm-忍城鳥瞰図-04 【04】忍城鳥瞰図、三之丸部分の拡大。本来の三重櫓の建ち位置はこの曲輪であった。 南へ続く枡形には、忍の松?、網引松?などの巨木があった。
    cm-スポット名-05 【05】文政6年 (1823) の忍城地図。郷土博物館内に保管されていて、撮影可能な展示物であった。 家臣団の新たな配置予定図として作られたが、この地図の通りには配置されなかったという。

     忍城の通称は「浮き城」と「亀城」。 往時の絵図を見ることで、まるで湖に浮かんでいるかのように見えたことが分かるでしょう。 要衝に位置するため何度も城攻めを受けたが、一度も落城しなかった関東屈指の堅城。 最大の侵攻があったのは天正18年 (1590)。 小田原北条氏に組したため、豊臣秀吉の大軍勢が送られました (現場指揮は石田三成)。 その際、利根川を利用した水攻めを受けるも耐え、先に北条氏が降伏したため開城。 成田氏は所領を失うものの、子孫は旗本として存続しました。

    巨木と雑記.忍城鎮守の諏訪神社

     諏訪神社 [1] の由緒について。 創祀は建久年間 (1190-1199) の頃とされ、当地を支配していた忍一族が勧請したとされます。 後に当地の支配が成田氏に移り、延徳3年 (1491) に成田親泰が忍城を築城。 その際、持田村の鎮守にもなっていた諏訪神社を諏訪曲輪に勧請。 以後、忍城および成田氏の守護神として祀られてきました。

     諏訪神社境内には東照宮 [1] も鎮座しています。 江戸末期から廃藩まで藩主を務めた、奥平松平家の鎮守でした。 祭神は徳川家康と家祖の松平忠明 (母は家康の娘である成徳院)。 創始は寛永2年 (1625)、桑名藩の藩主となった忠明が、郡山城内に建てた家康を祀る東照宮。 文政6年 (1823)、忠明から9代目となる忠堯の代で、桑名藩から忍藩へ移封。 その際に東照宮を忍城内の下荒井へ遷座。 明治初期、城の破却にともない、諏訪神社境内へ遷座されました。

    cm-スポット名-06 【06】諏訪神社と東照宮の由緒の解説板。
    cm-スポット名-07 【07】境内西側に鎮座する東照宮。

     城内鳥瞰図 [4] からも分かるように、かつての城内は本丸まで木々に覆われていて、 他の曲輪の各所にもスギやマツなど巨木が存在していたようです。 緑豊かな美しい浮き城だった。 現在、その面影はありません。 明治初期に廃城となり、建物の破却とともに、木々も悉くが伐採されたのです。 それでも神域である諏訪神社は守られた。 東照宮を含め、城内に点在していた複数の小社も諏訪神社へ遷座。 そのことが以下解説板、諏訪の大木 [2] にも記されています。 本殿背後の御神木は、激動の歴史を見守ってきた忍城唯一の生き証人。

    cm-スポット名-08 【08】諏訪神社境内の解説板「諏訪の大木」。廃城に伴う伐採が諏訪神社境内にも迫った。 すると切りつけた杉から生血のようなものが流れ出し、畏れた人々は境内の伐採を止めたという。