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宮代の大カヤ
巨木の写真
巨木の基本情報
巨木の名前 | 宮代の大カヤ [1][4] |
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樹種 | カヤ(榧) | |||
幹周 | 4.63m [1], 4.70m [3], 5.40m [4] | |||
樹高 | 21.2m [1], 21.0m [3], 22.0m [4] | |||
推定樹齢 | 350年 [1], 400年 [4] | |||
特徴 | 単幹で中腹より大枝が広がる | |||
保護指定 | 市指定天然記念物、県指定緑の文化財 | |||
所在地 | 福島県福島市宮代北口 | |||
所在施設 | 私有地、足守藩瀬上陣屋跡 | |||
撮影日・状態 | 2021.11.04 : 樹勢は良い様子、過去に低い位置の下枝が選定されているか | |||
アクセス | ||||
車 | 東北自動車道・福島飯坂ICから約5㎞ (駐車場なし) | |||
電車 | 阿武隈急行・福島学院前駅から約1㎞ | |||
参考情報 | ■現地解説板 [1] 宮代の大カヤ :内容は上記の写真07を参照 [2] 備中足守藩分領瀬上陣屋跡:内容は上記の写真09を参照 ■外部ウェブサイト [3] 巨樹巨木林データベース :当巨木の登録あり(2000年度の調査記録) [4] 福島県公式サイト :当巨木の情報あり [5] デジタル岡山大百科 :岡山県立図書館の電子図書館サイト、足守藩移封に関する情報あり [6] ウィキペディア :足守藩の情報 ■少遠景の記録 [7] 西念塚の大ケヤキ :伊達市のケヤキ、当地から近い [8] 万正寺の大カヤ :伊達郡桑折町にある県内最大級のカヤ |
巨木と雑記.福島市街地の巨木
福島市は県庁所在地のある中核都市。 県内でも特に人口が集中している市街地にも、以外と巨木が残っています。 市内最大と見られる当大カヤも、住宅密集地に残る巨木。 ここは元、江戸後期にあった足守藩の陣屋跡 (後述)。 明治期に土地が分譲され私有地になってからも、 所有者の方が代々、大切に守られてきたから今に残る大カヤ。 大きく広げた樹下には、史跡として陣屋跡の遺構も残されています。 宮代の大カヤ。あまり癖のない樹形の単幹。 中腹から複数の大枝を広げ、大きな樹冠をつくっている。 深い縦皴が刻まれた主幹は貫禄充分。見事な大カヤです。 そして樹皮の質感が、万正寺の大カヤ [8] に近いものを感じました。 もしかしたら、親子関係かも!?
巨木と雑記.史跡の陣屋跡
足守藩と陣屋跡について [3]。 足守藩、岡山県の岡山市足守町の一帯にあった藩。 豊臣秀吉の正室 (北政所・高台院) の実兄、木下家定を藩祖とします。 遠い西国の外様大名。その陣屋が何故奥州に?。 それは寛政12年 (1800) の幕命による領地替え。 約2万5千石の所領のうち、 ほとんどの約2万石分を当地の信夫群と伊達郡内に移すことに。 こうして奥州の分領統治の拠点として、ここに陣屋が建てられたのです。 何故、藩がつぶれそうな、罰といえる苛烈な移封を足守藩は受けたのか。 その真相らしきことを、岡山県立図書館 [5] のウェブサイトに見つけました。 質疑応答のリファレンスデータベースに、 以下書籍から引用した、移封原因についての回答がありました。 それによると、第9代藩主木下利彪が、寛政11年 (1799) の参勤交代で起こしたという不祥事。 これが幕府の逆鱗に触れたか、移封の原因となった可能性があるとのことです。 瀬上陣屋での日々。大いなる労苦の先に希望は見えたか。 大カヤは代官たちの愚痴の聞き相手になっていたかもしれません。 なお足守藩は、第11代藩主利愛のときに約1万石ほどの旧領が戻され、 殆どの旧領を回復したのは、廃藩置県が迫る明治維新後のこと[6]。 岡山県史研究・第12号「寛政改革と足守藩」:人見彰彦、岡山県総務部県史編纂室、1990年
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