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飯盛山の杉と桜
巨木の写真
巨木の基本情報
巨木の名前 | 厳島神社のスギ [2] |
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樹種 | スギ(杉) | |||
幹周 | 4.6m / 4.5m [8] | |||
樹高 | 35m / 35m [8] | |||
推定樹齢 | 不明 | |||
特徴 | 真っ直ぐな単幹の樹形 | |||
保護指定 | 会津若松市自然景観指定緑地・第8号 [2] | |||
所在地 | 福島県会津若松市一箕町大字八幡字堰端 | |||
所在施設 | 厳島神社 | |||
撮影日・状態 | 2021.04.12 : 南北に参道を挟む2本、樹勢は良い様子、北側のスギの方が若干太い | |||
アクセス | ||||
車 | 磐越自動車道・会津若松ICから約5km(市営観光駐車場までの場合) | |||
電車 | 会津若松駅から約3km(タクシー利用で飯盛山の入口付近まで) | |||
バス | 飯盛山下バス停、会津若松駅から路線バス「あかべぇ」か「ハイカラさん」を利用 | |||
参考情報 | ■現地解説板 [1] 厳島神社 :内容は上記の厳島神社の写真08を参照 [2] 自然景観指定緑地 :内容は上記の厳島神社の写真09を参照 [3] 太夫桜 :内容は上記の太夫桜の写真05を参照 [4] 白虎隊士の墓 :内容は下記の飯盛山の写真06を参照 [5] 白虎隊自刃の地 :内容は下記の飯盛山の写真09を参照 [6] 旧正宗寺三匝堂 :内容は下記の飯盛山の写真13を参照 [7] 戸ノ口堰洞穴 :内容は下記の飯盛山の写真16を参照 ■外部ウェブサイト [8] 巨樹巨木林データベース:厳島神社のスギの登録あり(2000年度の調査記録) [9] 会津若松観光ナビ :周辺の観光や名跡などの概要はこちら [10] 白虎隊記念館 :白虎隊を中心に戊辰戦争の史料を展示している [11] 會津藩校日新館 :会津藩の藩校、再建され多用途な学術的施設となった ■少遠景の記録 [12] 石部桜 :飯盛山の近くにある会津五桜の一本 [13] 鶴ヶ城の巨木と桜 :桜に彩られた天守の風景とともに城内の巨木も紹介 [14] 蚕養國神社の峰張桜 :近くの市街地に鎮座する古社にある名桜 |
巨木と雑記.飯盛山の散策
会津若松市街地の東に接する飯盛山。 戊辰戦争における悲劇の一幕、会津藩の少年兵で編成された、白虎隊の自刃の地として有名。 山頂付近には隊士たちの墓地や慰霊碑もあります。 古くは正宗寺の境内地の山。 残されているお堂の一つ、さざえ堂(旧正宗寺三匝堂)は国の重要文化財。 内部が二重螺旋構造をした大変珍しい造りです。 麓の戸ノ口堰、猪苗代湖から会津盆地へ至る用水路の隧道近くには、厳島神社があります。 門前に2本の立派な大スギが建つこの社は、正宗寺の境内社。 そして神社参道の手前には、市の天然記念物である太夫桜もあります。 悲しい歴史のある地でもありますが、見所の多い市街地を見渡せる展望の山。 以下、山内の様子です。[1][3][4][5][6][7]
巨木と雑記.厳島神社
飯盛山の別名は辯天山。 その由来となった古社が、北の山腹に鎮座する厳島神社です。 主祭神は市杵島姫神(神仏習合の権現は弁才天)。 山を背に建ち門前には2本の大スギと、城下を潤してきた戸ノ口堰の清流。 素晴らしい景観の飯盛山の鎮守です。 [1] 厳島神社の創建は永徳年間(1381~1384)のころ。 会津の領主が蘆名直盛のとき、石塚・石部・堂家の三家によって建立。 別頭は後に三匝堂(さざえ堂)を建てた正宗寺。 元禄13年(1700)に会津藩主の松平正容が神像と土地を寄進。 明治になって社名を厳島神社に改めたそうで、 元は弁天社や弁天宮などと呼ばれていたのかもしれません。 [1]
巨木と雑記.太夫桜
太夫桜は厳島神社の参道手前、白虎隊記念館の隣にあります。 解説板による幹周は5.50m、樹高は13.0m。 なかなに見事な枝ぶりの大桜。太い根本には西側に損傷跡があり、 昔はこの位置からも幹が伸びていたかもしれません。 [3] 名前は芸妓の墓に植えられたことに由来。 寛永3年(1626)の頃、いつき太夫という若松城下の名妓が、 花見のおり、この辺りで凶徒に殺害されてしまった。 弟の南秀(滝沢南岳院の僧)が姉を弔い、墓の側に植えたのが太夫桜。 現在の桜はニ代目とされるそうです。
巨木と雑記.白虎隊について
会津藩は慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦い後、 新たに西洋式の軍制による4部隊を編成しました。 主力となる朱雀隊(約1200名)、国境守備の青龍隊(約900名)。 そして玄武隊(約400名)と白虎隊(約340名)です。 玄武隊は50歳以上の高齢者、白虎隊は16~17歳の少年からなり、 本来なら前線へ出ることのない予備部隊でした。 しかし新政府軍の進撃は各防衛拠点を突破し、若松城下の目前に迫っている。 遂に白虎隊も前線へ駆り出されることに。 [4][5][10][11] なお各部隊の編制は、中核となる上士(上級武士)の士中隊、 寄合隊、足軽隊からなります。 白虎隊では士中一番隊と二番隊が各50名前後、 寄合一番隊と二番隊が各50名前後、足軽一番隊と二番隊が50名前後であったそうです。 [11] 同年8月23日(新暦10月8日)、 新政府軍の西軍が戸ノ口原まで進撃。 この防戦に白虎隊の士中二番隊(約42名)が加わりました。 圧倒的な新政府軍の物量を前に戦線はすぐに崩壊。 生き残った隊士のうち20名(諸説あり)が、洞門を抜けて飯盛山まで撤退しました。 ここから新政府軍へ突撃するか。 それとも城下の包囲を抜けて城へ帰還するか。 負傷して疲労困憊、進退ここに極まる。 そして選んだのが自刃。 捕らわれるか銃砲の前に倒れるよりも、尊厳のある死に方を選んだのです。 会津藩が降伏したのが、この約一ヶ月後のこと。 [4][5][10][11] 白虎隊士の戦死者は50名にのぼりました。 飯盛山で自刃した士中二番隊の20名(諸説あり)のうち、一人は地元民に救助され蘇生。 他の領内各所での戦死者は31名であるそうです。 290名の隊士たちは籠城戦を必死に戦い抜き、生きて明治の世を迎えることが出来ました。 なお、飯盛山には白虎隊に所属しない、戦死した62名の少年兵たちの慰霊碑もあります。 合掌。 [4][5][10][11]
巨木と雑記.閑話・会津戦争は回避できたか?
会津若松は戊辰戦争で最も激しく悲惨な戦場だったことでしょう。 城下も主戦場となり、白虎隊の少年たちだけでなく、大勢の婦女子たちまで犠牲になったとされます。 何故、会津藩はこのような運命を辿ったのか。 以下稚拙ながら、会津戦争を回避する方法をいくつか考えてみました。 まずは京都守護職を断ること。 これで幕府と薩長をはじめとした西国雄藩との矢面に立つことを回避。 そして戊辰戦争が起きても、新政府に恭順がすんなり受け入れられたかも。 ちなみに、藩主松平容保は当初は厄職である京都守護職を断ったのですが…。 徳川慶喜が薩摩藩との関係を悪化させないこと。 特に島津久光が開いた参与会議と四侯会議を慶喜がぶち壊したことは、倒幕の切欠になったか。 両会議は、雄藩も合議制での政権運営に参加できる制度の布石。 いわゆる公武合体を認めて主導できれば、薩摩藩との関係は保たれたかも。 雄藩の台頭を許しますが、どのみち弱体化した徳川家のみの政権運営は限界にきていたはず。 一国としてまとまらねば。 鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に勝つ事。 慶喜は大阪城に腰を据える。 まずは持てる最大戦力を以て、この戊辰戦争の初戦で新政府軍を徹底的に叩く。 そして京都で天皇を奪還し朝廷を掌握、大阪を新たな御所とするのもよいかも。 でも長州征伐も満足にできなかった幕府連合軍。 練度や士気が低いのか、決死の薩長軍に対し、数だけでは圧倒できなそうであるが…。 最後に会津藩も新政府に徹底して恭順し、江戸のような無血開城を目指すこと。 恭順には苛烈で屈辱的な条件を呑む必要もあり、 抗戦派の藩士や、藩内に入ってくる血気盛んな旧幕勢力を鎮めるのは大仕事でしょう。 それでも城下が火の海になるよりは…。 なお、江戸が無血開城したため、新政府軍にとって倒すべき象徴や主戦場がなくなり、 血祭りにあげるべき相手を失った狂暴なエネルギーが、未消化で今にも爆発しそうなとき。 旧幕勢力の拠り所ともなっている、佐幕の雄藩である会津は格好の標的です。 さらに長州藩には仇敵視もされている。 徹底恭順しても江戸のように収拾はつかず、 少なからず悲劇が起こってしまうのかもしれません。
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