巨木TOP / 福島 / 鶴ヶ城(若松城)の巨木と桜
鶴ヶ城(若松城)の巨木と桜
巨木の写真
巨木の基本情報
巨木の名前 | 鶴ヶ城のケヤキ(仮名) |
|
||
---|---|---|---|---|
樹種 | ケヤキ(欅) | |||
幹周 | 6.20m [1] | |||
樹高 | 25.0m [1] | |||
推定樹齢 | 不明 | |||
特徴 | 土塁傾斜地の立地、太い根本と空洞 | |||
保護指定 | 国定史跡の立地、福島県緑の文化財 | |||
所在地 | 福島県会津若松市追手町 | |||
所在施設 | 鶴ヶ城公園 | |||
撮影日・状態 | 2021.04.13 : 西側根本に空洞が開口、太い根本に比して主幹上部が少し先細りな印象 | |||
アクセス | ||||
車 | 磐越自動車道・会津若松ICから約6km(東口駐車場までの場合) | |||
電車 | 会津若松駅から約3km(タクシー利用で北出丸までの場合) | |||
バス | 鶴ヶ城入口バス停、会津若松駅から会津バスの路線「あかべぇ」か「ハイカラさん」を利用 | |||
参考情報 | ■外部ウェブサイト [1] 巨樹巨木林データベース:一部の巨木の登録あり(2000年度の調査記録) [2] 会津若松観光ビューロー:鶴ヶ城の公式サイト ■少遠景の記録 [3] 石部桜 :会津五桜の一本 [4] 飯盛山と杉と桜 :飯盛山と共に麓の厳島神社の杉と太夫桜を紹介 [5] 蚕養國神社の峰張桜 :市街地に鎮座する古社の桜 |
複数の巨木情報
地図中に示した巨木を巨樹巨木林DB [1] に登録済みのものから比定(誤っている場合あり)
地図 | 登録済 | 幹周 | 樹高 | 枝張南北 | 枝張東西 | 補足 |
---|---|---|---|---|---|---|
ケヤキ (1) | ○ | 6.20m | 25.0m | 25.0m | 25.0m | 本丸外郭の土塁、管理事務所の背後 |
ケヤキ (2) | - | - | - | - | - | 北出丸の外堀の北東縁、幹周は5mくらい? |
ケヤキ (3) | ○ | 5.40m | 15.0m | 20.0m | 20.0m | 二ノ丸北側の伏兵郭、北側外郭の土塁 |
ケヤキ (4) | - | - | - | - | - | 二ノ丸、廊下橋の手前、幹周は4mくらい? |
ケヤキ (5) | ○ | 5.50m | 12.0m | 20.0m | 20.0m | 西出丸、西側外郭の土塁(伐採済) |
モミ (1) | ○ | 4.80m | 35.0m | 15.0m | 15.0m | 本丸外郭の土塁、管理事務所の背後 |
モミ (2) | - | - | - | - | - | 本丸外郭の土塁、稲荷神社の側、モミ (1) より太そう |
エゾエノキ | ○ | 3.40m | 20.0m | 18.0m | 18.0m | 本丸外郭の土塁、稲荷神社の側 |
巨木と雑記.鶴ヶ城の巨木たち
鶴ヶ城は福島県で一度は訪れておきたいところ。 国定史跡で築城から600余年が経った今でも、大規模な城郭の遺構が保たれています (史跡の指定範囲は約8万7千坪)。 国内屈指の堅城で、本丸をはじめ壮大な石垣に覆われた各曲輪の、外郭や虎口は素晴らしい威容。 他にも再建された美麗な天守、美しい庭園なども見所で、城内には約1000本ものソメイヨシノが植栽。 桜の名所としても有名です。[2] 城内に群生する巨木も鶴ヶ城の魅力。 特に曲輪外郭の土塁上に佇むケヤキの巨木たちには、目を見張るものがあります。 ちなみに、城内で私が特に気に入った巨木は2本。 北出丸の外堀にあるケヤキ。北出丸の石垣と重なる立ち位置がとてもよい。 そして本丸の大手門虎口の東、稲荷神社の側にある城内で最大のモミ。 探してみてください。 最後に以下、桜に彩られた鶴ヶ城天守の風景です。
補足・鶴ヶ城の歴史概略
【 蘆名氏の時代 】 至徳元年(1384)、蘆名直盛に築かれた東黒川館が鶴ヶ城の前身とされる。 場所は現在の三ノ丸跡の周辺。 当時の会津若松は黒川と呼称。 第16代盛氏のとき、二ノ丸や本丸の城郭が造られたとされる。 【 蒲生氏の時代 】 天正17年(1589)、伊達政宗の侵攻により会津蘆名氏は滅亡。 すぐ後、豊臣秀吉の奥州仕置により、蒲生氏郷を伊勢から会津へ転封。 氏郷は、城郭の改築と城下町の建設を進め、黒川を若松と改め、城の名も鶴ヶ城と改名。 現在の会津若松の基礎を築いた。 【 加藤氏の時代 】 寛永4年(1627)に伊予から加藤嘉明が会津へ転封。 2代目の明成が城を大改築。 西出丸と北出丸を増築、天守閣を5層に改築。 本丸の大手口を二ノ丸から通じる廊下橋から変更。 北出丸から椿坂、太鼓門、帯郭、鉄門を経て本丸へ至る順路へ。 現在に通じる鶴ヶ城の姿が完成した。 【 松平氏の時代 】 寛永20年(1643)に徳川秀忠の庶子である保科正之が最上から転封。 3代目の正容から松平姓となり、9代目の松平容保が最後の藩主となった。 慶応4年(1868)に新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争がはじまる。 江戸城が落ちた後、旧幕勢力は会津藩を中心(奥羽越列藩同盟)に抗戦。 慶応4年8月に会津城下まで新政府軍が侵攻。約1ヶ月による籠城戦の末に降伏開城。 【 近現代の鶴ヶ城 】 明治07年(1874):天守と城内の建造物の破却 明治23年(1890):松平家へ払い下げ 明治41年(1908):会津に第13師団歩兵65連帯の設立記念に約1000本のソメイヨシノが植樹 昭和09年(1934):若松市の市有となり国の史跡に指定 昭和40年(1965):天守閣の再建 (情報の参考元は会津若松観光ビューロー [2] )
福島TOP | △TOP | 前へ戻る |