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    素鵞神社のケヤキ

    巨木の写真

    撮影日:2022.11.20 【01】ここは古城跡、小川鎮守の御神木 素鵞神社のケヤキ-01
    【02】 素鵞神社のケヤキ-02
    【03】 素鵞神社のケヤキ-03
    【04】 素鵞神社のケヤキ-04
    【05】 素鵞神社のケヤキ-05
    【06】 素鵞神社のケヤキ-06
    【07】 素鵞神社のケヤキ-07
    【08】 素鵞神社のケヤキ-08
    【09】 素鵞神社のケヤキ-09

    巨木の基本情報

    巨木名称 素鵞神社のケヤキ [2]
    樹種 ケヤキ (欅)
    幹周 5.90m [2], 6.00m [4], 5.55m [6], 6.02m (実)
    樹高 35.0m [2][4][5], 20.0m [6]
    推定樹齢 500年 [4][5]
    特徴 単幹、中腹から4本の大枝に分岐
    保護指定 小美玉市指定天然記念物
    所在地 茨城県小美玉市小川古城
    所在施設 素鵞神社
    日付状態 2022.11.20 : 目立つ損傷なく樹勢良し、幹が大枝に分かれる根本にヤツデ (八手) が生えている
    アクセス
    常磐道・千代田石岡ICから約12km
    電車 JR常磐線・石岡駅から約8km、高浜駅から約7km
    参考情報 ■現地解説板
     [1] 素鵞神社の由緒    :内容は下記雑記の写真02を参照
     [2] 素鵞神社のケヤキ   :内容は下記雑記の写真07を参照
     [3] 素鵞神社のケンポナシ :内容は下記雑記の写真05を参照 (幹周3.7m、樹高25m、樹齢約200年)
    ■外部ウェブサイト
     [4] 素鵞神社公式サイト  :神社の由緒・歴史を参考、ケヤキとケンポナシの紹介あり
     [5] 小美玉市公式サイト  :当巨木の登録あり (1988年度の調査記録)
     [6] 巨樹巨木林データベース:当巨木の登録あり (1988年度の調査記録)
     [7] 攻城団        :小川城の情報を参考
    ■少遠景の記録
     [8] 下馬場鹿島神社のケヤキ:小美玉市、小川十二郷の総鎮守とされた古社、スギの御神木もある
     [9] 中延側高神社のケヤキ :小美玉市、境内にはケヤキの巨木が複数

    巨木と雑記.城跡に座す小川鎮守

     霞ヶ浦に注ぐ園部川、その河口から上流に約3㎞。 左岸の段丘上に築かれた、小川城跡に鎮座する素鵞神社 [1][4] 。室町時代に創建された古社で、 7月中旬に行われる祇園祭は、まちをあげて盛大に行われます。 そんな小川の鎮守には御神木が2本、市指定天然記念物のケヤキ [2] とケンポナシ [3]。 ケンポナシはこの樹種としてはかなりの太さ。 由来は小川城跡にあった稽医 (けいい) 館。 文化元年 (1804) に創設された医学修練所です。 本草学研究のためにケンポナシが植えられ、 それが境内にも伝わったとみられるそうです。

     御神木のケヤキは、樹勢がよく端正な立姿。 背後の立派な拝殿と重なり、厳かな景観をつくっています。 中腹から4本の太枝に分岐し、大きな樹冠を立ち昇らせる。 そして、この枝の分かれ目に着生した、ヤツデ (八手) の緑が印象的でした。

    cm-素鵞神社-01 【01】ケヤキ御神木と拝殿。
    【02】 cm-素鵞神社-02
    【03】 cm-素鵞神社-03
    【04】 cm-素鵞神社-04
    【05】 cm-素鵞神社-05



     素鵞神社の由緒について [1][4] 。室町時代末期の享禄2年 (1529)。 園部川の河口で漁をしていた橋本兄弟 (源左衛門・孫左衛門) が、 流れの中で発見した御神体を持ち帰り祀った。 翌享禄3年、小川城主の園部兼泰がこの御神体を城に迎える。 御神体は陰陽の二柱。 陰神の櫛稲田姫命を城内に、陽神の素戔嗚尊を城外に社殿を建立し祀った。 以後、毎年6月 (新暦7月) の例大祭が城と村中をあげて行われ、 現在の祇園祭に受け継がれています。 明治2年 (1869)、本丸の北端とみえる現在地に遷座。 元の鎮座地は不明、今より低地にあったそうです。 昭和20年代 (1945)、城内 (小川小学校?) に祀られた陰神を、 境内の稲田姫神社へ遷座しました。

     なお、御神体が発見されたという地、園部川の河口は眺めの良いところです。 雄大な霞ヶ浦と広がるレンコン畑の眺めが壮観。 その様子は下馬場鹿島神社のケヤキ [8] からご参照ください。

    巨木と雑記.小川城の歴史

     小川城は正治2年 (1200)、小川郷地頭であった小川政平による築城に発するそうです。 南北朝時代以降は小川氏は没落するものの、 子孫は長谷川氏を名乗り、戦国時代は駿河・遠江国の今川氏の家臣に。 江戸時代には旗本として存続。小川政平から18代目にあたるのは長谷川宜以。 通称は平蔵、火付盗賊改役として活躍。 池波正太郎の人気小説、鬼平犯科帳の主人公として有名です。

     戦国時代の小川城。 当地は現・石岡市域を本拠とした大掾氏、現・水戸市域を本拠とした江戸氏の間にあり、 幾多の合戦が行われたという。 そして現・つくば市域を本拠とする小田氏も勢力を伸ばしてくる。 この三勢力の間にある小川城は、戦略の要所であったことでしょう。 享禄年間 (1528-1532) の頃、小川城主の園部兼泰が素鵞神社を建立。 主君は小田政治、このとき小川城は小田氏の勢力下でした。 やがて兼泰の子である兼彦は、大掾氏と内通したことから追放されます。 すると兼彦は江戸氏と通じ、援軍を得て小川城を奪還。 しかし小田氏に攻められ城を奪われました。

     戦国時代の終わり以後。 天正18年 (1590)、佐竹氏は小田原征伐で武功を挙げ、 豊臣秀吉より下野と常陸国の領地を安堵。 小田氏・大掾氏・江戸氏は領地を失い衰退。 小川城には佐竹氏の家臣、茂木治良が入ります。 慶長5年 (1600) 関ヶ原合戦の後、東軍に組しなかった佐竹氏は、徳川家康により秋田へ移封。 代わって合戦で武功のあった出羽国の戸沢政盛が、 多賀郡と茨城郡小川を与えられ、小川城に入城。 元和8年 (1622)、政盛は出羽新庄藩に加増移封。 以後、当地は水戸藩領になり廃城。 その後、水戸藩の運送庁、医学修練所の稽医館、小学校や旧小川町役場などが築かれ、 現在に至ります。

    【 参考資料 】
      ・小美玉市公式サイト [5]、広報おみたま (平成28年1月号-p28、平成20年10月号-p17)
      ・攻城団 [7]、No'1857 小河城

    cm-小川城の縄張 地理院地図の陰影起伏図から。地形から曲輪の範囲や堀切の跡が見えてくる。

     おわりに小川城の縄張りについて。 地形から小川小学校が本丸跡のようにみえます。 地理院地図の陰影起伏図が分かりやすい。 公民館・図書館の建つところは、二之丸や三之丸などがあったか。 小学校との間、道路が通っているところは堀切のようです。 小学校から西側にも曲輪があったように見える。 戦国時代に三勢力が奪い合った堅城です。