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    峯薬師の大椎

    巨木の写真

    撮影日:2022.08.06 【01】茨城県の西部では最大級のスダジイ、薬師様の御神木 峯薬師の大椎-01
    【02】 峯薬師の大椎-02
    【03】 峯薬師の大椎-03
    【04】 峯薬師の大椎-04
    【05】 峯薬師の大椎-05

    巨木の基本情報

    巨木の名前 峯薬師の大椎 [1]
    樹種 スダジイ (すだ椎)
    幹周 5.90m [1][2], 7.50m (実測)
    樹高 不明 (10m以上)
    推定樹齢 500年 [1][2]
    特徴 単幹、地上高2m付近に数本の横枝
    保護指定 常総市指定天然記念物
    所在地 茨城県常総市篠山 681-1
    所在施設 共同墓地、峯薬師堂
    撮影日・状態 2022.08.06 : 主幹中央の上部を欠損、樹冠はこんもり茂っており樹勢は良さそう
    アクセス
    圏央道・常総ICから約6㎞、坂東ICから約9㎞
    電車 関鉄常総線・石下駅、南石下駅から約2㎞
    参考情報 ■現地資料
     [1] 解説板・峯薬師の大椎 :内容は下記雑記の写真を参照
    ■外部ウェブサイト
     [2] 常総市ホームページ  :当巨木の情報あり、豊田城についても参考
     [3] 巨樹巨木林データベース:当巨木は未登録 (2022年8月時点)
    ■少遠景の記録
     [4] 石毛稲荷神社の大けやき:常総市、石毛村の総鎮守の御神木
     [5] 大日塚大けやき    :常総市、旧飯沼小学校の跡地 (今は公民館の敷地)

    巨木と雑記.幹周は県内最大級のスダジイ

     鬼怒川の右岸沿いで、南北に石下大橋 (県道24号) と石下橋がある間。 川沿いの集落の中に峯薬師堂はあります。 集落の共同墓地に囲まれた、御堂の傍らに立派な大シイがそびえ立っている。 初見では株立ちに見えましたが単幹。 低い位置から数本の横枝が生えています。 予想よりも太い幹に感激。 誤差はあると思いますが、胸高周囲は約8mに近い太さがありました。 大枝や主幹の上部は失っているが、樹冠は大きく茂り、樹勢は良さそうな様子。 常総市が誇る県内最大級のスダジイです。

    cm-峯薬師の大椎 解説板。薬師堂は室町時代の創建され、大シイもその時に植えられたとの伝承。 大正時代までは、近辺の向石下の法輪寺、杉山の山王にも大シイがあり、三本椎と呼ばれていたという。

    巨木と雑記.豊田城 (閑話)

     峯薬師堂の近くで面白い建物を見つけました。 すぐ東、鬼怒川の堤防に接したところ。 城の櫓に似た形の建物です。 倉庫のようで、水防関係のものが置かれているのかも。 ここから目線を東、鬼怒川の対岸へ転じてみると、 遠くに城の天守閣が見えて驚きました。 それは豊田城こと地域交流センター [2] 。郷土史博物館を兼ねていて、最上階の天守は展望室になっています。 ちなみに、櫓状の倉庫は他にも3つあり、概ね東西南北の配置です。 鬼怒川を挟む西の櫓が最も本丸から離れている。

    cm-豊田城西櫓-01 【01】峯薬師堂からすぐ東、鬼怒川堤防に面した櫓状の倉庫。豊田城の西の櫓というわけだ。
    cm-豊田城西櫓-02 【02】西櫓 (倉庫) の前から東、鬼怒川対岸、住宅地の奥にそびえる立派な天守閣、豊田城こと地域交流センター。
    cm-豊田城西櫓-03 【03】西櫓前から豊田城をズーム。天守閣の高さは約48.5mあるという。

     後日、気になっていた豊田城 [2] を見学してきました。 3・4・6階が郷土史や産業の展示室となっていて、 興味深い資料をじっくりと見学できます。 7階の天守閣展望室は約40mもの高さがあり、外の回廊は360度の大展望。 北東側には、筑波山を主体としたご当地の美景が広がっている。 天気が良ければ北西側に日光連山、南側に東京スカイツリーを遠望できます。 そして西側の鬼怒川対岸には、櫓と重なる大シイの樹冠も見える。 関東平野の大展望も楽しめる素晴らしい郷土史博物館でした。
    (補足:1階はホールと見学受付、2階は図書館、5階は休憩室、展示室内は撮影禁止)

    cm-豊田城-01 【01】白壁が美しい豊田城こと地域交流センター。 遠くからもよく目立つ。送電塔と電波塔を除けば、常総市内で最も高い建造物だろう。 以下写真は天守閣からの眺め。
    【02】筑波山 cm-豊田城-02
    【03】日光連山 cm-豊田城-03
    【04】東京ST cm-豊田城-04
    【05】峯薬師 cm-豊田城-05



     おわりに豊田城の歴史について [2] 。平安時代末期から戦国時代まで、500余年もの長きにわたり、当地を領してきた豊田氏の居城。 実際に在った場所は、地域交流センターから東に離れた小貝川右岸です。 城の構造は、堀と土塁を巡らせた砦に守られた、平屋の居館であったらしい。 新生豊田城のモデルは何だろう。会津若松城に少し似ているかも。 戦国時代末期の豊田氏は、 佐竹氏や結城氏の勢力に圧され領地を狭められる。 それでも豊田城が落城することはなかったそうです。 天正2年 (1575)、同盟を組んでいる小田氏の土浦城が、佐竹氏により落城。 翌天正3年、第22代当主の豊田治親は家臣により毒殺され、豊田氏は滅亡。 やがて城は多賀谷氏の居城となります。 しかし慶長5年 (1600) の関ヶ原合戦において多賀谷氏は、 徳川家康に従わなかったため改易処分、廃城となりました。 現在、城の遺構などは残っていないらしい。 それでも気になる人は、石碑の建つ城跡に訪れてみてください。