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    尾曳稲荷神社のクスノキ

    巨木の写真

    撮影日:2024.09.17 【01】館林城の郭跡に座す尾曳稲荷神社の御神木 尾曳稲荷神社のクスノキ-01
    【02】 尾曳稲荷神社のクスノキ-02
    【03】 尾曳稲荷神社のクスノキ-03
    【04】 尾曳稲荷神社のクスノキ-04
    【05】 尾曳稲荷神社のクスノキ-05
    【06】 尾曳稲荷神社のクスノキ-06
    【07】 尾曳稲荷神社のクスノキ-07
    【08】 尾曳稲荷神社のクスノキ-08
    【09】 尾曳稲荷神社のクスノキ-09

    巨木の基本情報

    巨木の名前 尾曳稲荷神社のクスノキ (仮)
    樹種 クスノキ (楠)
    幹周 4.20m [2][5]
    樹高 20.0m [2], 18.0m [5]
    推定樹齢 不明
    特徴 中腹から双幹となり広がる
    保護指定 館林保存樹木 (17号)
    所在地 群馬県館林市尾曳町
    所在施設 尾曳稲荷神社
    撮影日・状態 2024.09.17 : 根本に空洞、西側の開口部が塞がれている、樹冠は大きく樹勢は良い様子
    アクセス
    東北道・館林ICから約4km
    電車 東武伊勢崎線・館林駅から約2km
    参考情報 ■現地資料
     [1] 尾曳稲荷神社の由緒   :内容は下記雑記の写真04を参照
     [2] 保存樹木等指定標識   :内容は上記巨木の写真09を参照
    ■外部ウェブサイト
     [3] 尾曳稲荷神社ホームページ:神社由緒について参考
     [4] 館林市ホームページ   :館林城について参考
     [5] 巨樹巨木林データベース :当巨木の登録あり (2000年度の調査記録)
    ■少遠景の記録
     [6] 茂林寺の大サワラ    :館林市、室町時代に創建の古刹、狸が和尚に化けた伝承が有名
     [7] 旅日記・城沼の白鳥   :館林市、城沼に憩う白鳥と他の野鳥たち

    巨木と雑記

     館林市街中心部の市役所から東、境内を城沼に接した尾曳稲荷神社 [1] [3] 。ここは館林城 [4] の郭のひとつ、稲荷郭であったところ。 社伝では天文元年 (1532)、城主の赤井照光によって、城の守護神として勧請されたそうです。 江戸時代に入ると城は館林藩の藩庁となり、当地は要衝のため歴代の譜代大名が赴任。 城下は賑わい、神社は町人たちからも崇敬を集めたことでしょう。

     尾曳稲荷神社の参道入口、一之鳥居の近くに根差すクスノキ。 気持ちの良い立姿で大きな樹冠を広げ、参拝者を迎えてくれます。 南側から見仰ぐと、連続する赤鳥居と重なる姿が印象的でした。

    cm-尾曳稲荷神社-01 【01】尾曳稲荷神社の社殿。
    cm-尾曳稲荷神社-02 【02】社殿前の三之鳥居。
    cm-尾曳稲荷神社-03 【03】三之鳥居の背後から。参道に続くのは二之鳥居と連続する赤鳥居。左にクスノキが見える。
    cm-尾曳稲荷神社-04 【04】神社由緒の解説板。

     尾曳稲荷神社 [1] [2] の社名にまつわる創祀の伝承について。 室町時代に館林を拠点とした赤井氏。 赤井照光の代のとき、城沼南岸の大袋城が主城であった。 あるとき照光は、捕まえられた子狐を助ける。 すると、親狐が報恩のため現れ、 堅固な新しい城の縄張りを、尾を曳いて導いた。 そして、城の守護に稲荷神を勧請すれば、神使となり仕えると伝え姿を消す。 こうして照光は尾曳城 (後の館林城) を築き、 天文元年 (1532) 、郭に稲荷神社を勧請した。 以上のような伝承です。 なお、同じく市街中心部に座す、 初引稲荷神社 (地図リンク) と夜明稲荷神社 (地図リンク) は、尾の曳き初めと曳き終わりの場所と伝わるそうです。

     ちなみに、館林城 [4] の築城時期には諸説あります。 館林城 (立林城) の名称は、文明3年 (1471) の文献、 足利成氏書状、上杉顕定感状などに記述があるらしい。 当時の関東では、古河公方の足利成氏と、 関東管領上杉氏の二大勢力が争っていた。 当時の赤井氏は成氏の旗下であり、 館林城には、赤井文三・文六が居たそうです。 館林城が赤井氏の居城であったのは永禄5年 (1562) まで。 小田原北条氏の旗下であったため、上杉謙信により攻略された。 その後も色々あって江戸時代に入ると、 徳川四天王の一人榊原康政が城主となる。 これ以後、近代的な城郭に造り変わっていったそうです。

     なお、地図中に示した郭図は館林ホームページ [4] を参考にしました。 江戸中期以降の縄張りでしょうか。 本丸跡には、土塁や堀の跡が残っているようです。