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親鸞上人乳銀杏
巨木の写真
巨木の詳細情報
巨木の名前 | 親鸞上人乳銀杏 | 樹種 | イチョウ(公孫樹) | |
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幹周/樹高 | 11.5m / 28m | 推定樹齢 | 800年(伝承) | |
保護指定 | 長岡市指定天然記念物 | 所在地 | 新潟県長岡市寺泊野積 | |
撮影日/天候 (状態) |
2016.09.03 / 晴 : 樹勢は良い.西側に気根が多い.かつて中央に主幹があった様子. |
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アクセス | ||||
車 | ■北陸自動車道・三条燕IC:約20km、国道289、県道29、弥彦山スカイライン経由 | |||
電車 | ■JR弥彦線・弥彦駅 :タクシーの利用で約15分(弥彦タクシー 0120-827-818) | |||
備考 | 弘智法印の即身仏が安置されている弘智堂への拝観は、有料で手続きが必要。 駐車場の東端にある、宝物堂と併設された寺務所で受付をする。 受付の際に、拝観の時刻を告げられるので、その時刻までに弘智堂の前で待機。 時刻になると和尚様が弘智堂の中へ拝観者を導き、有り難い解説をして下さる。 当然ながら内部での写真撮影は禁止。 | |||
近辺の観光 |
西生寺 :西生寺の公式サイト.普通のお寺の公式サイトとは一味違って面白い! ながおか観光NAVI :長岡市の公式の観光情報サイト. 大杉公園 :姿の美しい巨木・蓮花寺の大杉が見所! 弥彦観光協会・弥彦浪漫:弥彦村の公式の観光情報サイト. 弥彦山ロープウェイ :弥彦神社の奥から弥彦山へ.頂上には展望室が昇降する展望塔がある! 弥彦神社 :越後国一宮の大社.弥彦山が御神体.広大な社叢に荘厳な社殿. |
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近辺の巨木 | 弥彦の蛸ケヤキ / 弥彦の婆々杉 / 行塚の大榎 |
巨木の地図
巨木と雑記
西生寺は越後平野のランドマークたる弥彦山の中腹に開かれた古刹。
開基は約1300年前の奈良時代と長い歴史を持ち、室町時代の初期の僧・弘智法印の即身仏(日本最古)が有名です。
弘智法印をお祀りする弘智堂の前には、大イチョウの「親鸞上人乳銀杏」が立っています。
日本海に面した越後平野は、信濃川と阿賀野川の下流域(河口は新潟市)。
2つの大河が運んだ堆積物により、潟(ラグーン)が埋まった広大な平野は、
現在では水田に覆われた、日本有数の穀倉地帯。
弥彦山は、越後平野の中央部の日本海沿いに聳え、その西側の中腹に西生寺は位置しています。
越後平野の中央に聳える端正な形の弥彦山(標高634m)。
古来より霊山として信仰されてきた山で、東山麓に位置する越後一宮の古社、弥彦神社の御神体でもあります。
日本海や越後平野を一望できる山頂へは、県道(弥彦山スカイライン)やロープウェイが整備され、アクセスは容易。
また登山ルートも豊富で、私は滞在時間に余裕があれば、西生寺からの裏参道ルートで登ってみたかった…。
地理とその姿、信仰、神社、観光施設。我が故郷、関東平野における筑波山と重なり、親しみを感じました。
西生寺へ参詣した一番の目的は、大イチョウと弘智法印の即身仏の拝観でした。
駐車場にある寺務所で、受付を済ませた後、拝観の時刻まで、境内を見学。
整然とした美しい木石の境内は気持ちよく、特に客殿(奉造立寂靜堂)と本堂(阿弥陀堂)が見事でした。
客殿に祀られている御本尊の愛染明王像は、上杉謙信の寄進と云われるもの。
本堂の御本尊は、三重構造の阿弥陀如来像。2層目の木像が本山を開基したという行基菩薩の作で、1層目が純金の像と云われます。
秘仏なので、12年に一度の御開帳のみ拝観が可能。
仏殿の欄干に施された前衛的で鮮やかな絵画に見入りました。この作品は、水上貴博・画伯によるもの。
境内の東にある高台に建つ弘智堂と金比羅堂。
その両堂の前に、親鸞上人乳銀杏を呼ばれる立派な大イチョウが立っています。
寺伝による大イチョの由緒。
正元2年(1261)に、当山を参篭された浄土真宗の開祖・親鸞上人が、
イチョウの枝の杖を、地面に挿したものが根付いたものと伝えられます。別名・お杖木。
大イチョウは、3~4本の大きな幹を中心とした側幹の集合のように見えます。
中心に空間があるので、かつては主幹があったのかもしれません。
気根は西側の幹に集中しており、一部は地面に達しています。
弘智堂の建つ東側の幹は、大きく樹皮が剥がれていますが、樹勢には影響は無い様子。
枝葉の繁盛の具合から、全体的に樹勢は良好に見えました。
歴史ある古刹の神木たるに相応しい、見事な風格を湛えた大イチョウでした。
弘智堂で弘智法印への拝観。
寺伝によると、弘智法印は千葉県の匝瑳市の出身。
現存する蓮花寺の住職を務めた後、江戸、東北、北海道、高野山、四国など日本各地を行脚。
60代を迎えた頃、越後に入り、西生寺の奥之院を入定の地と決心されました。
奥之院で続けられた、入定を迎えるための精神と体力の限界を超えた、3千日もの苦行。
そして遂に70余歳の、貞治2年(1363)、入定を果たされました。
日本各地を行脚して、目にしてきた人々の様々な苦しみ。
その救済の手段として辿り着いた命がけの信仰と伝導。
末世に弥勒菩薩がこの世界に現れ人々を救済するまで、
我が身を残して世を救わんとする、その信念が貫かれたのです。
和尚様の導きの元、堂内で即身仏への拝観。感慨無量でした。
【 弘智法印・辞世の句 】
岩坂の 主は誰ぞと 人問わば 墨絵に書きし 松風の音
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