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薬師寺八幡宮のケヤキ
巨木の写真
巨木の基本情報
巨木の名前 | 薬師寺八幡宮のケヤキ [1] |
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樹種 | ケヤキ (欅) | |||
幹周 | 4.80m [1] | |||
樹高 | 20.0m [1] | |||
推定樹齢 | 600年 [1] | |||
特徴 | 単幹、枝の一部が連理 | |||
保護指定 | 下野市指定天然記念物 | |||
所在地 | 栃木県下野市薬師寺 | |||
所在施設 | 薬師寺八幡宮 | |||
撮影日・状態 | 2022.10.09 : 樹勢良好、実際の樹齢は300年くらいか?、更に太く成長しそう | |||
アクセス | ||||
車 | 東北道・佐野藤岡ICから約35㎞、栃木ICから約19㎞、圏央道・五霞ICから39㎞ | |||
電車 | JR自治医大駅 (宇都宮線・湘南新宿線) から約3㎞ | |||
参考情報 | ■現地資料 [1] 薬師寺八幡宮の由緒 :解説板、内容は下記の薬師寺八幡宮の写真05を参照 [2] 薬師寺八幡宮のケヤキ :解説板、内容は上記巨木の写真09を参照 [3] 下野薬師寺の由緒 :解説板、内容は下記の下野薬師寺の写真03を参照 [4] 下野薬師寺の境内図 :解説板、内容は下記の下野薬師寺の写真04を参照 [5] 下野薬師寺の講堂跡 :解説板、内容は下記の下野薬師寺の写真05を参照 [6] 下野薬師寺の回廊跡 :解説板、内容は下記の下野薬師寺の写真06を参照 [7] 下野薬師寺の五重塔跡 :解説板、内容は下記の下野薬師寺の写真09を参照 ■外部ウェブサイト [8] 薬師寺八幡宮ホームページ:由緒について参照 [9] 下野薬師寺ホームページ :由緒と境内の史跡について参照 [10] 巨樹巨木林データベース :当巨木の登録不明 (1988年度の調査記録に該当があるかも?) ■少遠景の記録 [11] 橋本鷲宮神社のモミ :下野市、旧村社、古い石鳥居や社殿と重なる立姿が良い [12] 野木神社のケヤキ :栃木県野木町、フクロウが樹上の洞に営巣、境内にはイチョウ巨木もあり |
巨木と雑記.薬師寺八幡宮
下野市の中央部に位置する下野薬師寺跡 [3][9] は、市内の代表的な国指定史跡。 創建は奈良時代、正式な僧侶を定める戒壇が置かれた大寺院でした。 後の平安時代、勅命により薬師寺および東国の守護神として、薬師寺八幡神社 [1][8] が創建。境内は史跡の東に隣接しています。 当地の総鎮守に相応しい厳かで広い境内。 長い参道の並木には、御神木の大ケヤキがあります。 樹勢良好かつ整った樹容の見事な大ケヤキ。 根本の社にはフクロウの置物がたくさん。 この御神木には、フクロウが住み着くことがあるそうです。
薬師寺八幡宮の由緒について [1][8] 。貞観10年 (875)、第56代清和天皇の勅命により、下野薬師寺と東国の守護神として創建。 天喜4年 (1056)、源頼義が奥州阿部氏の征伐に向かう途次、戦勝祈願のため参宮。 頼義は凱旋したとき、奉斎として鉄弓3張、鏑矢6本を奉納したという。 なお、頼義の後続軍と阿部氏の軍勢が当社郷にて合戦。 その兵火により社殿は灰燼に帰した。 中世に入ると薬師寺と共に衰退を迎える。 最盛期は550町歩余の神領を有し、郷内に10余の末寺を従えていたという。 江戸時代、佐竹義宣 (右京大夫) の支配領となる寛文2年 (1662) 以後、 主な社殿の再建と境内の再整備が進められた。 南北に長く続く参道では、昭和初期まで流鏑馬神事が行われていたという。
巨木と雑記.下野薬師寺
八幡宮の西に広がる国指定史跡の下野薬師寺跡。 その中央、東金堂跡の前には、現本堂を構えて薬師寺の法灯は存続しています。 境内東側には五重塔跡。 西側には復元された回廊と、新たに建立された鑑真和上の像を祀る戒壇堂。 また西の境外には、発掘品を見学できる歴史館があります。 八幡宮と併せて巡拝・見学してみてください。
下野薬師寺の由緒について [3][9]。 創建は白鳳8年 (680)。 天武天皇の皇后 (後の持統天皇) 病平癒を記念しての建立とされる。 天平勝宝5年 (753)、孝謙天皇の勅命により、鑑真和上が戒壇の設立と受戒を一任する。 東大寺に戒壇院が設立。 天平宝字5年 (761)、東国と西国でも受戒できるように、 大宰府観世音寺と下野薬師寺に戒壇院が設置 (日本三戒壇)。 以後、東国で僧となるには、下野薬師寺にて修行・受戒する定めとなった。 室町時代の暦応2年 (1339)。 足利尊氏は、国土安穏と戦没者供養のため、国ごとに安国寺を建立させる。 下野国では新たに建立せず、下野薬師寺を安国寺とし、以後この寺名となる。 戦国末期の元亀元年 (1570)、小田原北条氏が下野国に侵攻。 下妻の多賀谷氏を攻めたが、結城氏の援軍によって安国寺まで退却。 兵火により七堂伽藍の悉くが焼失。 後、江戸初期の慶長年間 (1596-1615)。秋田藩佐竹家の家老、渋江内膳政光により本堂と戒壇堂が再建された。 現在。 平成29年 (2017) より、本堂・山門・庫裡、本尊・諸仏菩薩像の大修理を行った。 これを機に寺名を安国寺から、創建時の下野薬師寺に戻す。 令和2年 (2020) より戒壇堂の修理をはじめ、 翌年には落慶法要と唐招提寺の承諾を得て制作した、 鑑真大和上像、丈六釈迦如来坐像の開眼法要を行い、堂内に奉納した。
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