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    今城青坂稲実池上神社のケヤキ

    巨木の写真

    撮影日:2022.10.06 【01】社殿の横に寄り添う大ケヤキ、親子のような御神木 今城青坂稲実池上神社のケヤキ-01
    【02】 今城青坂稲実池上神社のケヤキ-02
    【03】 今城青坂稲実池上神社のケヤキ-03
    【04】 今城青坂稲実池上神社のケヤキ-04
    【05】 今城青坂稲実池上神社のケヤキ-05

    巨木の基本情報

    巨木の名前 今城青坂稲実池上神社のケヤキ (仮)
    樹種 ケヤキ (欅)
    幹周 4.10m [2], 4.75m (実測)
    樹高 20.0m [2]
    推定樹齢 不明
    特徴 単幹、傍らの若木
    保護指定 不明
    所在地 埼玉県児玉郡上里町忍保
    所在施設 今城青坂稲実池上神社
    撮影日・状態 2022.10.06 : 目立つ損傷なく樹勢は良い様子、根本の数か所に網が設置、穴に虫などの進入を防ぐ措置?
    アクセス
    関越道・本庄児玉ICから約7km
    電車 JR本庄駅 (高崎線・湘南新宿線) から約6km
    参考情報 ■現地資料
     [1] 神社の由緒の解説板  :内容は下記雑記の写真04を参照
    ■外部ウェブサイト
     [2] 巨樹巨木林データベース:当巨木の登録あり (2000年度の調査記録)
    ■少遠景の記録
     [3] 金鑚神社のクスノキ  :隣の本庄市、本庄の総鎮守とされた古社、御神木は県北で最大級のクスノキ
     [4] 反町薬師のクスノキ  :群馬県太田市、新田義貞の居館跡に開かれた古刹

    巨木と雑記

     上里町の北端、烏川沿いに位置する忍保地区。 当地の鎮守が今城青坂稲実 (いまきあおさかいなみ) 池上神社。 興味深い珍しい社名に引かれて訪れました。 この社名は創建したのが、渡来人であったことに由来するらしい (由緒は後述)。 境内は良い雰囲気。木々に包まれ長い参道があります。 そして嬉しいことにケヤキの御神木がありました。 傍らには若木が一本根差していて、親子のような佇まい。 二本とも樹勢が良く、仲良く成長していって欲しいものです。

    cm-今城青坂稲実池上神社-01 【01】拝殿正面。奥に本殿が続く。
    cm-今城青坂稲実池上神社-02 【02】二之鳥居の前。
    cm-今城青坂稲実池上神社-03 【03】一之鳥居の前。
    cm-今城青坂稲実池上神社-04 【04】神社由緒の解説板。


     今城青坂稲実池上神社の由緒について [1]。 祭神は息吹戸主命、豊受姫命の二柱。 創建年代は社伝によると和銅4年 (711)。 延喜式神名帳に記述のある、賀美郡四社のひとつに比定。 社名の「今城」は「今来」から転じたもので、 新たに来た人という意味があるそう。 優れた技術で当地を開拓した渡来系の人々が、 稲魂を祀る神社であったと考えられるそうです。

     鎌倉時代が終わる元弘年間 (1331-34)。 同3年に鎌倉を陥落させた新田義貞により再興される。 当社から西に位置する支城のひとつ、 金窪城 (地図リンク) の鬼門の守護とされた。 以後、代々の城主から崇敬されるも、天正10年 (1582) に社殿が兵火により焼失。 同年は織田信長が討たれる本能寺の変がおこり、 この乱に乗じて北条氏は織田領の上野 (群馬県域) に侵攻。 上野を領していた滝川一益との大合戦の末に勝利 (神流川の戦い)。 北条氏の支城となっていた金窪城の一帯も戦場となったのです。

     天正18年 (1590)、小田原征伐により北条氏が滅亡し、徳川家康が関東入国。 翌天正19年、家康の家臣である川窪信俊 (武田信玄の甥) が、 当地賀美郡の領主となる。 信俊により社殿と新田の寄進を受けて再興されました。 元禄7年 (1694)、大洪水により社殿が流出。 本殿だけは水中から引き揚げ、地盤を高く築き、修繕を加えて再興。 その名残は現在も見えます。 本殿は塚のような土盛りの上に建ち、拝殿よりも高い位置にあります。