• TOP
  • 巨木
  • 登山
  • 渡良瀬
  • 旅日記
  • 更新履歴
  • PR
  • 巨木TOP / 埼玉 / 飛龍の榧

    飛龍の榧

    巨木の写真

    撮影日 (2017.03.24) 【01】本堂の横に聳える大きく傾いだ飛龍の榧.南側. 飛龍の榧01
    【02】 飛龍の榧02
    【03】 飛龍の榧03
    【04】 飛龍の榧04
    【05】 飛龍の榧05
    【06】 飛龍の榧06
    【07】 飛龍の榧07
    【08】 飛龍の榧08
    【09】 飛龍の榧09
    【10】 飛龍の榧10
    【11】 飛龍の榧11
    【12】 飛龍の榧12
    【13】 飛龍の榧13

    巨木の詳細

    巨木の名前 飛龍の榧[1]
    樹種 カヤ(榧)
    幹周 3.50m [6]
    樹高 不明
    推定樹齢 300年 [1]
    特徴 大きく南へ傾いた主幹
    保護指定 本庄市指定天然記念物
    所在地 埼玉県本庄市児玉町保木野
    所在施設 龍清寺
    撮影日・状態 2017.03.24 : 樹勢は良い様子、見事な傾き具合で主幹は折損していない
    アクセス
    関越道・本庄児玉ICから約6m
    電車 JR八高線・児玉駅から約3㎞
    参考情報 ■現地資料
     [1] 石碑・本堂屋根改築記念:内容は下記雑記の写真01を参照
     [2] 解説板・飛龍乃榧   :内容は下記雑記の写真02を参照
     [3] 解説板・塙保己一公園 :内容は下記雑記の写真03を参照
     [4] 石碑・塙保己一の墓碑 :内容は下記雑記の写真04を参照
     [5] 解説板・塙保己一の旧家:内容は下記雑記の写真05を参照
    ■外部ウェブサイト
     [6] 巨樹巨木林データベース:当巨木の登録あり (2000年度の記録)
     [7] 本庄市ホームページ  :塙保己一の情報など参考
    ■少遠景の記録
     [8] 城山稲荷神社のケヤキ :本庄市内の巨木、本庄城跡に残る大ケヤキ (公開準備中)
     [9] 宝輪寺のカヤ     :本庄市内の巨木、飛龍のカヤよりも大きい

    巨木と雑記.龍清寺の歴史

     龍清寺 [1][2] は真言宗豊山派の寺院(不動院東方山)で、児玉三十三霊場二十七番札所。 創建は慶長年間 (1596-1615)。 その後、宝永年間 (1704-1711) に暴風雨で倒壊。 正徳年間 (1711-1716) に中興の祖、袋算和尚が再建するも、その後に火災で寺史や寺宝を消失。 現在の本堂は、文政13年 (1830) に再建されたものが元だそうです。

     時代は昭和に入って無住の期間もあり、寺は荒れた時期があったそうです。 そんな時に住職となった真淨和尚が、本堂の改築を発願。 檀徒の賛同を得て改築工事は始まりますが、その最中に和尚は病が重くなり遷化。 本堂の改築は着工から約100日後、遂に完成。 このことが詳しく刻まれている本堂屋根改築記念碑 [1] を読み、胸が熱くなりました。

    cm-龍清寺-01 【01】龍清寺の本堂屋根改築記念碑。

    巨木と雑記.飛龍の榧

     飛龍の榧にまつわる伝承について [2]。 カヤは中興の祖、袋算和尚の手植えによるもの (樹齢の根拠)。 和尚は上野国新田郡笠懸 (現・群馬県みどり市の一部) にある不動寺の修行僧でした。 あるとき、師僧から修行の旅に出るように諭され、そして辿り着いたのが、 この保木野の地にあった不動堂。 和尚、荒れていた不動堂の再興と修行に励むこと幾星霜。 師僧から形見として渡されたカヤの実は、いつしか大木へ成長。 和尚はかつて、眠っているとき龍神に乗って飛ぶ夢を何度も見たことを思い出し、 飛龍の榧と名付けたと云われます。

     このカヤの特徴は、大きく南へ傾いた主幹。 根元から頭頂部まで、滑らかな線を描いて湾曲。 昔から田畑が多くて遮蔽物が少なく、上州名物・空っ風に揉まれた結果か。 今まさに、天へ昇らんと巨体を剃らした飛龍。そんな名が示す通りの立姿。 10数年後の飛龍は、背に大きな翼を広げた姿となっているかもしれません。

    cm-飛龍の榧-02 【02】飛龍の榧の解説板。

    巨木と雑記.閑話・塙保己一の生地

     龍清寺の建つ本庄市保木野は、埼玉を代表する近世の偉人の一人、塙保己一 [3][5][7] の出生地。 誕生は延享3年 (1746)。幼少時に盲目となるも、学問を研鑽し、江戸にて国学者として大成。 寛政5年 (1793)、幕府公認の学問所である和学講談所を創立。 安永8年 (1779)、膨大な数の歴史書と文学書をまとめた一大叢書、群書類従を刊行。 文政4年 (1821)、盲人の最高位の官職・検校を統括する総検校に就任。 後の学者の育成や、学問の研究に多大な貢献を成した人物です。

     塙保己一の墓碑 [4] と旧家があるのは、龍清寺のすぐ近く。 墓碑は子孫(萩野家)の方が、明治19年に四谷の安楽寺の墓所から、土を持ち帰って慰霊したのが始まりだそう。 墓碑は近年に、綺麗に整備された塙保己一公園の奥に移されました。 ちなみに、明治30年に安楽寺は廃寺となり、元の墓所は新宿の愛染院へ移され現存しています。

    cm-塙保己一公園-03 【03】龍清寺のすぐ南側にある塙保己一公園の解説板。
    【04】 cm-塙保己一公園-04
    【05】 cm-塙保己一公園-05
    【06】 cm-塙保己一旧宅-06
    【07】 cm-塙保己一旧宅-07