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飛龍の榧
巨木の写真
巨木の詳細
巨木の名前 | 飛龍の榧[1] |
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樹種 | カヤ(榧) | |||
幹周 | 3.50m [6] | |||
樹高 | 不明 | |||
推定樹齢 | 300年 [1] | |||
特徴 | 大きく南へ傾いた主幹 | |||
保護指定 | 本庄市指定天然記念物 | |||
所在地 | 埼玉県本庄市児玉町保木野 | |||
所在施設 | 龍清寺 | |||
撮影日・状態 | 2017.03.24 : 樹勢は良い様子、見事な傾き具合で主幹は折損していない | |||
アクセス | ||||
車 | 関越道・本庄児玉ICから約6m | |||
電車 | JR八高線・児玉駅から約3㎞ | |||
参考情報 | ■現地資料 [1] 石碑・本堂屋根改築記念:内容は下記雑記の写真01を参照 [2] 解説板・飛龍乃榧 :内容は下記雑記の写真02を参照 [3] 解説板・塙保己一公園 :内容は下記雑記の写真03を参照 [4] 石碑・塙保己一の墓碑 :内容は下記雑記の写真04を参照 [5] 解説板・塙保己一の旧家:内容は下記雑記の写真05を参照 ■外部ウェブサイト [6] 巨樹巨木林データベース:当巨木の登録あり (2000年度の記録) [7] 本庄市ホームページ :塙保己一の情報など参考 ■少遠景の記録 [8] 城山稲荷神社のケヤキ :本庄市内の巨木、本庄城跡に残る大ケヤキ (公開準備中) [9] 宝輪寺のカヤ :本庄市内の巨木、飛龍のカヤよりも大きい |
巨木と雑記.龍清寺の歴史
龍清寺 [1][2] は真言宗豊山派の寺院(不動院東方山)で、児玉三十三霊場二十七番札所。 創建は慶長年間 (1596-1615)。 その後、宝永年間 (1704-1711) に暴風雨で倒壊。 正徳年間 (1711-1716) に中興の祖、袋算和尚が再建するも、その後に火災で寺史や寺宝を消失。 現在の本堂は、文政13年 (1830) に再建されたものが元だそうです。 時代は昭和に入って無住の期間もあり、寺は荒れた時期があったそうです。 そんな時に住職となった真淨和尚が、本堂の改築を発願。 檀徒の賛同を得て改築工事は始まりますが、その最中に和尚は病が重くなり遷化。 本堂の改築は着工から約100日後、遂に完成。 このことが詳しく刻まれている本堂屋根改築記念碑 [1] を読み、胸が熱くなりました。
巨木と雑記.飛龍の榧
飛龍の榧にまつわる伝承について [2]。 カヤは中興の祖、袋算和尚の手植えによるもの (樹齢の根拠)。 和尚は上野国新田郡笠懸 (現・群馬県みどり市の一部) にある不動寺の修行僧でした。 あるとき、師僧から修行の旅に出るように諭され、そして辿り着いたのが、 この保木野の地にあった不動堂。 和尚、荒れていた不動堂の再興と修行に励むこと幾星霜。 師僧から形見として渡されたカヤの実は、いつしか大木へ成長。 和尚はかつて、眠っているとき龍神に乗って飛ぶ夢を何度も見たことを思い出し、 飛龍の榧と名付けたと云われます。 このカヤの特徴は、大きく南へ傾いた主幹。 根元から頭頂部まで、滑らかな線を描いて湾曲。 昔から田畑が多くて遮蔽物が少なく、上州名物・空っ風に揉まれた結果か。 今まさに、天へ昇らんと巨体を剃らした飛龍。そんな名が示す通りの立姿。 10数年後の飛龍は、背に大きな翼を広げた姿となっているかもしれません。
巨木と雑記.閑話・塙保己一の生地
龍清寺の建つ本庄市保木野は、埼玉を代表する近世の偉人の一人、塙保己一 [3][5][7] の出生地。 誕生は延享3年 (1746)。幼少時に盲目となるも、学問を研鑽し、江戸にて国学者として大成。 寛政5年 (1793)、幕府公認の学問所である和学講談所を創立。 安永8年 (1779)、膨大な数の歴史書と文学書をまとめた一大叢書、群書類従を刊行。 文政4年 (1821)、盲人の最高位の官職・検校を統括する総検校に就任。 後の学者の育成や、学問の研究に多大な貢献を成した人物です。 塙保己一の墓碑 [4] と旧家があるのは、龍清寺のすぐ近く。 墓碑は子孫(萩野家)の方が、明治19年に四谷の安楽寺の墓所から、土を持ち帰って慰霊したのが始まりだそう。 墓碑は近年に、綺麗に整備された塙保己一公園の奥に移されました。 ちなみに、明治30年に安楽寺は廃寺となり、元の墓所は新宿の愛染院へ移され現存しています。
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