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小松神社のイチョウ
巨木の写真
巨木の基本情報
巨木の名前 | 小松神社のイチョウ (仮) |
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樹種 | イチョウ (公孫樹) | |||
幹周 | 6.10m [4] | |||
樹高 | 10.0m [4] | |||
推定樹齢 | 300年以上 [4] | |||
特徴 | 複数の側幹の集合 | |||
保護指定 | 不明 | |||
所在地 | 埼玉県羽生市小松 | |||
所在施設 | 小松神社 | |||
撮影日・状態 | 2022.11.13 : 主幹上部や大枝の欠損あり、側幹の数は多い、強剪定しなければ樹冠は大きくなりそう | |||
アクセス | ||||
車 | 東北道・羽生ICから約7km | |||
電車 | 羽生駅 (東武伊勢崎線・秩父鉄道) から約2km | |||
参考情報 | ■現地資料 [1] 小松神社の由緒 :解説板、内容は下記雑記の写真01を参照 [2] 小松神社の文化財 :解説板、内容は下記雑記の写真02を参照 [3] 乳房樹之記 :石碑、内容は下記雑記の写真03を参照 ■外部ウェブサイト [4] 巨樹巨木林データベース:当巨木の登録あり (1988年度の調査記録) [5] 羽生市ホームページ :文化財や観光情報を参考 [6] 益子町ホームページ :安善寺の情報を参考 [7] 那須塩原市ホームページ:妙雲寺の情報を参考 [8] 城里町ホームページ :小松寺と伝内大臣平重盛墳墓の情報を参考 [9] 茨城県教育委員会 :小松寺と伝内大臣平重盛墳墓の情報を参考 [10] ウィキペディア :平重盛と平貞能の情報を参考 ■少遠景の記録 [11] 上岩瀬のシイノキ :羽生市、医王寺の境内にある古木 [12] 永明寺のイチョウ :羽生市、境内には市内最大規模とされる古墳がある |
巨木と雑記.羽生総鎮守の御神木
埼玉県の北東部、利根川に接して位置する羽生市 [5] 。江戸時代は青縞と呼ばれる藍染織物の一大産地。 現在もその産業は存続し、武州中島紺屋 (地図リンク) には資料館もあります。 市域の東には大きな水郷公園 (地図リンク) があり、様々な淡水魚を集めた水族館が併設。 そして国の天然記念物であるムジナモ (水草) の自生地でもあります。 そんな羽生市の総鎮守が、創建から1000年以上の歴史を有するという小松神社。 本殿の右手前には、社号と地名の由来になった小松明神を祀る社。 その隣には神社の長い歴史を感じさせる、御神木の大イチョウが根差しています。 主幹上部を失っていても、たくさんの側幹を立ち昇らせている。 幹周は8m近くありそうな量感。羽生市で最大最古の巨木です。
小松神社の由緒について [1][2]。 社伝では創祀は景行天皇の御代。 日本武尊が東征の途中、当地に祠を建立して伊弉諾命、伊弉冉命の二柱を祀った。 天慶3年 (940)、関東で平将門の乱が勃発したとき、征討軍の平貞盛と藤原秀郷は当社にて戦勝祈願。 凱旋後に奉斎として社殿を建立したとされる。 室町時代までには熊野権現と白山権現の合社として信仰。 木造阿弥陀如来坐像が熊野権現の本地仏、木造十一面観音坐像が白山権現の本地仏。 慶安元年 (1648)、羽生領72町ヶ村の総鎮守となり現在に至ります。
巨木と雑記.小松明神と平貞能
小松神社の社号の由来は、三柱目となる御祭神の平重盛 [10] 。平清盛の嫡男で次期当主と目されましたが、惜しくも治承3年 (1179) に42歳で病没。 優れた武将で平家物語には、文武両道で仁徳をも持ち合わせた人物として描かれています。 通称は小松殿と呼ばれ、 京都六波羅の小松谷に屋敷があったことに由来。これが社号となりました。 そんな重盛が何故この地に祀られているのか。 その由緒が大正8年 (1919) に建てられた石碑、乳房樹之記 [3] に刻まれていました。 簡単にまとめた碑文の内容は以下。 【 乳房樹之記の要約 】 壽永年間 (1182-1184)、平重盛の家臣であった平貞能 [10] が常陸へ隠棲した。 このとき、携えてきた重盛の遺骨を当社に埋葬し、祠を建て標木としてイチョウを植えた。 当社を選んだ理由は、重盛が信仰していた熊野権現を祀る社であったこと。 後に里人たちから小松明神として崇敬され地名にもなった。 このイチョウが乳房樹と呼ばれる由縁は、産婦の乳出を良くする信仰のため。
小松神社に平重盛を葬ったという平貞能。 その所縁とされる寺院が、茨城県と栃木県にもあります。 寿永3年 (1184)、壇ノ浦の戦いを経て平家は滅亡。 源氏の支配下となった関東でも、貞能には伝手があったようです。 まずは栃木県の益子町にある安善寺 [6] 。貞能は下野を拠点とする有力御家人、宇都宮朝綱を頼って投降。 朝綱は過去に貞能から受けた恩義を返すべく、源頼朝に助命嘆願。 そして許され、貞能は朝綱の預かりとなり、 安善寺を建て平家一門の霊を弔ったそうです。 また、那須塩原市の妙雲寺 [7] も貞能の創建とされ、境内には重盛の妹 (妙雲禅尼) とされる墓があります。 茨城県の城里町にある小松寺 [8] [9] 。ここも貞能の創建とされ、 重盛の遺骨を葬ったとされる墓、 伝内大臣平重盛墳墓は県指定の史跡。 寺伝によると貞能は、重盛夫人 (得律禅尼) とその妹を伴い、高野山へ逃れて出家。 その後、北陸・下野塩原を経て常陸へ入る。 そして元は平家方の武将であった大掾義幹から、当地を与えられたそうです。 小松寺には貞能と重盛夫人のものと伝わる墓と、 重盛の守本尊と伝わる木造浮彫如意輪観音像もあります。 こうしてみると貞能は、最終的に茨城県の小松寺に隠棲し、 重盛の遺骨もそこに葬られたように思えます。 しかし、乳房樹之記に驚きの一文が刻まれていました。 以下、その前後の原文を抜粋。
以下原文、乳房樹之記の4行目とその前後。 貞能は源氏に組する坂東武者たちに、重盛の墓が暴かれるようなことを危惧したらしい。 だから、表立っては常陸に埋葬したと吹聴し、その実は当社に埋葬したというもの。 羽生総鎮守の小松神社こそが本当の…。 當時源氏再興シ坂東諸國、概ネ其ノ旗下ニ属セザルハナシ、之ニ因テ貞能深ク慮リ 公ノ遺骨ヲ陽ニハ常陸ニ葬ルトナシ陰ニ此処ニ葬リ 其ノ上ニ公孫樹ヲ植エテ以テ標トシ、而シテ其ノ身ハ常陸ニ隠レタルモノナラン
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