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大宝八幡宮の社叢
巨木の写真
巨木の基本情報
巨木の名前 | 大宝八幡宮の社叢 (仮) |
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幹周 | イチョウ:4.10m [4] 大王松 :2.27m [2] ケヤキ :4.67m [4], 5.52m (実測) カヤ :3.62m (実測) | |||
樹高 | イチョウ:18.0m [4] 大王松 :23.0m [2] ケヤキ :23.0m [4] カヤ :不明 (15m以上) | |||
推定樹齢 | 大王松は大正4年 (1915) の植樹 | |||
保護指定 | 不明 | |||
所在地 | 茨城県下妻市大宝 (大宝八幡宮) | |||
撮影日・状態 | 2023.07.03 : 4本ともに樹勢は良い様子、ケヤキのみ主幹上部が欠損している | |||
アクセス | ||||
車 | 常磐道・谷和原ICから約28km、圏央道・境古河ICから約22km | |||
電車 | 常総線・大宝駅から200m以内 | |||
参考情報 | ■現地資料 [1] 大宝八幡宮本殿の解説板:内容は下記雑記の写真05を参照 [2] 大王松の解説板 :内容は上記巨木の写真08を参照 ■外部ウェブサイト [3] 大宝八幡宮ホームページ:神社由緒、社殿、摂社など参考 [4] 巨樹巨木林データベース:イチョウとケヤキの登録あり (1988年度の調査記録) ■少遠景の記録 [5] 下妻神社の大欅 :下妻市、下妻城下の鎮守に根差す市内最大の巨木 |
巨木と雑記
下妻市の北東部に鎮座する大宝八幡宮 [3] 。創建から1300余年を有するという関東最古級の八幡宮です。 大宝律令が制定された時代、この常陸国河内郡の鎮護として創建されたと伝わります。 南北朝時代には南朝方における東国の拠点 (大宝城) となり、 最盛期には数多くの寺院を従えた。 徳川幕府からは115石もの朱印地を安堵されたという。 そんな大宝八幡には、現在も市内外から大勢の参拝者が訪れています。 広大な境内には巨木が多いのも魅力。 荘厳な社殿の周りには、御神木のイチョウと、珍しい樹種のダイオウショウ (大王松)。 相撲場の近くには、ケヤキ、カヤ、ヒマラヤスギも根差している。 下妻市を代表する大社は、巨木の宝庫でもあります。
大宝八幡宮の由緒について [3] 。飛鳥時代の末期、大宝律令が制定された大宝元年 (701)。 藤原時忠により宇佐八幡宮 (大分県宇佐市) より勧請されたと伝わる。 時忠は朝廷より派遣された常陸国の国司、または河内郡の郡司であったのかも。 御祭神は、誉田別命 (応神天皇)、足中彦命 (仲哀天皇)、息長足姫命 (神功皇后) の三柱。 社号は大宝年間に創建されたことに由来するそうです。 鎌倉時代に入って。 源頼朝の命により、若宮八幡宮の勧請および、御家人の多気弘幹が当社に奉仕。 この弘幹によって後の別当は、 常陸国三宮である吉田神社 (水戸市) の神宮寺である、薬王院が代々兼務するようになった。 南北朝時代。大宝城が築かれ南朝方の東国における拠点となる。 周囲を河川や湿地に囲まれた段丘上の台地、天然の要害であったそうです。 暦応4年 (1341)、春日顕国が興良親王を奉じて入城。 しかし康永2年 (1343) には北朝方の侵攻により落城。 大宝八幡宮も大きな被害を受けたとことでしょう。 戦国時代、下妻を領した多賀谷氏から庇護。 現在の本殿は第7代下妻城主の多賀谷重経により、天正5年 (1577) に再建されたもの。 江戸時代、下妻は天領となり、大宝八幡は115石の朱印地を安堵。 最盛期には8つもの寺院を従えていたそうです。 明治維新後、各寺院は廃寺となる。 江戸時代より残る寺院建築としては、 本殿横に建つ護摩堂で、現在は祖霊殿とされています。
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