• TOP
  • 巨木
  • 登山
  • 渡良瀬
  • 旅日記
  • 更新履歴
  • PR
  • 巨木TOP / 埼玉 / 鷲宮神社の社叢

    鷲宮神社の社叢

    巨木の写真

    撮影日:2025.09.07 【01】鷲宮神社の拝殿前に根差すクスノキ 鷲宮神社の社叢-01
    【02】 鷲宮神社の社叢-02
    【03】 鷲宮神社の社叢-03
    【04】 鷲宮神社の社叢-04
    【05】 鷲宮神社の社叢-05
    【06】 鷲宮神社の社叢-06
    【07】 鷲宮神社の社叢-07
    【08】 鷲宮神社の社叢-08
    【09】 鷲宮神社の社叢-09
    【10】 鷲宮神社の社叢-10
    【11】 鷲宮神社の社叢-11
    【12】 鷲宮神社の社叢-12
    【13】 鷲宮神社の社叢-13

    巨木の基本情報

    巨木名 鷲宮神社の社叢 (仮)
    樹種 クスノキ (楠)、カヤ(榧)、イチョウ (公孫樹)
    幹周 クスノキ:3.80m [3]
    カヤ  :3.60m [3]
    イチョウ:不明 (直径約1.7m ⇒ 幹周約5.34m)
    樹高 クスノキ:20.0m [3]
    カヤ  :25.0m [3]
    イチョウ:不明 (5m以下)
    推定樹齢 不明
    保護指定 不明
    所在地 鷲宮神社 (埼玉県久喜市鷲宮1丁目)
    撮影日 2025.09.07 : クスノキとカヤは樹勢良し、イチョウは近年にヒコバエが剪定された様子
    アクセス
    東北道・久喜ICから約6km、加須ICから約5km
    電車 東武伊勢崎線・鷲宮駅から徒歩約500m
    参考情報 ■外部ウェブサイト
     [1] 鷲宮神社ホームページ :鷲宮神社の由緒と文化財について参考
     [2] 久喜市ホームページ  :鷲宮神社の由緒と文化財について参考
     [3] 巨樹巨木林データベース:当巨木の登録あり (2000年度の調査記録)
     [4] 国立国会図書館    :デジタルコレクションより新編武蔵風土記稿を参考 (鷲宮村・鷲宮神社)
    ■少遠景の記録
     [5] 旧渡辺多門家のタブノキ:久喜市、旧鷲宮町、旧上川崎村の名主を務めた渡辺家の門前に根差す

    巨木と雑記

     久喜市北部の旧鷲宮町に鎮座する鷲宮神社 [1] [2] は、埼玉県内でも特に有名な神社の一座。 関東最古級の神社と云われ、埼玉県の東部を占める広域、武蔵国太田庄の総鎮守とされました。 吾妻鏡に記録があるように、鎌倉幕府から東国鎮護の神として崇敬。 以後、室町幕府、古河公方、関東における数々の有力武将からも崇敬。 徳川幕府からは400石もの神領を受けた大社です。(神社由緒の詳細は後述)

     広大な鷲宮神社の境内。 3ヘクタール以上ありそうな境内の殆どは、 豊かな樹林に覆われいて、その景観はまさしく荘厳な鎮守の森です。 そんな境内で目立つ巨木は、拝殿前の映える位置に根差すクスノキ、 絵馬の懸けられたカヤ、ヒコバエが伸びた大イチョウの切り株などでしょうか。 また、広い境内林の中には小径が伸びていて、境内社も点在するので、 一周してみてください。

    cm-鷲宮神社-01 【01】拝殿と2棟ある本殿を東側から. 手前の拝殿真後ろが主祭神の天穂日命と御子の武夷鳥命を祀る本殿. その隣 (西側) が大己貴命を祀る神崎神社.
    cm-鷲宮神社-02 【02】拝殿正面。横幅は6間 (約11m) くらいだろうか。
    cm-鷲宮神社-03 【03】本殿を西側から.手前 (西側) が大己貴命を祀る神崎神社。
    cm-鷲宮神社-04 【04】本殿を背後 (北側) から。

     鷲宮神社の創建の由緒 [1] について。 神代の昔、天穂日命と御子の武夷鳥命が東国を治めるため、 共の昌彦と昌武の父子および、出雲の27人の部族など率いて当地へ辿り着いた。 そのとき、大己貴命 (大国主神) を祀る神崎神社を建てたのが創祀とされ、 後に天穂日命を祀るために建てられた別宮が、現在の本殿と繋がるそうです。

     続いて、新編武蔵風土記稿 (巻211 / 埼玉郡 13巻 / 鷲宮村) にある鷲宮神社の記録。 国立国会図書館デジタルコレクション [4] で閲覧可能。 該当ページの検索キーとなる永続的識別子とコマ番号「764009 / 10」です。 それによると、日本書紀に天穂日命は、 出雲の臣、武蔵国造、土師氏などの遠縁と記されている。 故に鷲宮神社は土師 (はじ) 氏による創建であり、 土師宮が訛って鷲宮 (はじのみや ⇒ わしのみや) となったと指摘。 なお、鷲宮神社で奉納される神楽には、催馬神楽というものがあります。 正規名称は「土師一流催馬楽神楽」と呼ばれ、古くは「土師の舞」と呼ばれ、 関東神楽の源流とされるそうです。

     引き続いて新編武蔵風土記稿より、吾妻鏡にあるという鷲宮神社の記録から2件。 建久4年 (1193) 11月18日。 太田荘鷲宮の御宝前に血が流れている凶事があった。 卜筮 (占い) により戦の兆しありと出たので、榛谷重朝を使者として派遣。 神馬の奉納および社壇を荘厳にした。
     次に建長3年 (1251) 4月13日。 相州 (5代執権相模守北条時頼) が鷲大明神に奉幣使を派遣しようとたころ、 三嶋大社の神事と重なり、宮司から他社への奉幣に苦言があった。 このため、鷲宮大明神の方は若宮別当法印 (鶴岡八幡宮別当の隆弁) に向かわせた。 4月22日、若宮別当法印は鎌倉に帰参。 御祈願成就に奇瑞あり、4月19日に奉納した神楽では託宣があり厳かであったという。
     以上のことから、何かあれば直ちに有力御家人や鶴岡八幡宮別当が派遣されるほど、 鎌倉幕府にとって重要な神社であったことが分かります。