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  • 旅日記TOP深谷市のホフマン輪窯と専用鉄道跡旧煉瓦製造施設

    深谷市のホフマン輪窯と専用鉄道跡 ~旧煉瓦製造施設~

    はじめに

     このページでは日本煉瓦製造株式会社の文化財、ホフマン輪窯6号窯、旧事務所、旧変電室を紹介。 最後に鉄道レールも紹介します。 ホフマン輪窯6号窯の見学については、保存修理工事のため、 見学の日時と公開される範囲が変わることも。 最新情報は深谷市ホームページ [1] でご確認ください。

    【 地図 】

    日本煉瓦製造の工場跡に残る施設は、この地図の一番北側にある。 現在、工場敷地は市有地となり、印刷会社と市の浄化センターが入っている。

    ホフマン輪窯6号窯

     国指定重要文化財、日本煉瓦製造のホフマン輪窯6号窯。 現存するホフマン輪窯では国内最大。 明治40年 (1907) の建造で、長さ56.5m、幅20m、高さ3.3mの煉瓦造。 円環になった窯を18の部屋に分け、 各工程 (窯詰・予熱・焼成・冷却・窯出) を順次行いながら移動し、約半月かけて窯を一周。 ひと月で約65万個の煉瓦を製造したそうです。 現在、保存修理工事が進行中。 当日 (2024年11月)、見学できたのは窯内の一部のみでも大迫力でした。 今後、公開される範囲は広がっていくでしょう。

    ホフマン輪窯6号窯-見出_01 【01】保存修理工事が進行中のホフマン輪窯6号窯 (2024年11月)。 周囲は補強の鉄骨。煙突は煉瓦造りであったが、現在は鉄骨コンクリート。 操業当時は3階建てだった (3階に煉瓦の乾燥室)。
    ホフマン輪窯6号窯-見出_02 【02】ホフマン輪窯による煉瓦の製造工程を分かりやすく説明する資料。仮設展示施設より。 基本的に一度に焼成したのは二部屋らしい。
    03 ホフマン輪窯6号窯_03

    補強の鉄骨を抜けて窯の中へ (以降2024年11月の工事中の写真)

    04 ホフマン輪窯6号窯_04

    窯内の様子、当日、照明は無く真っ暗であった、天上に補強の鉄骨が通る

    05 ホフマン輪窯6号窯_05

    窯内の様子、北側のカーブしているところ、焼成室8

    06 ホフマン輪窯6号窯_06

    窯内の様子、今後は更に補修・整備され、展示資料など置かれるだろう

    昔の様子と仮設展示施設の資料

     日本煉瓦製造の操業当時の様子。 ホフマン輪窯6号窯が建造された明治40年 (1907) 頃には最盛期を迎え、 他に1号~5号窯も稼働。 24時間、交代制で休みなく煉瓦を製造し続けた。 おそらく様々な作業に携わった人達の総計は数千人。 一つの町のように大規模な工場でした (敷地面積10万m2)。 その当時の工場の風景や、作業する人達の様子が、 現地解説板や仮設展示施設の資料から分かります。

    日本煉瓦製造-見出_01 【01】これは専用鉄道を渡した備前渠鉄橋の近くにある解説板。 操業当時の工場の風景。 6基ほホフマン輪窯の煙突から煙が上がる。じつに壮観だったろう。
    日本煉瓦製造-見出_02 【02】備前渠鉄橋の近くにある解説板の写真より。 右下の昭和32年の写真に旧会社事務所、その奥に今は解体されて無くなった4号窯の姿が写っている。 当時既に5号窯は無い。
    日本煉瓦製造-見出_01 【03】今昔マップ [2] より引用。 新旧の国土地理院の航空写真を比較。 右は最新、左は1961-64年。 昭和40年代には工場の規模がかなり縮小し、6基在ったホフマン輪窯は4号と6号のみ。

     以下、仮設展示施設の資料です。操業当時の作業風景が分かります。 ちなみに、工場の立地に上敷免が選ばれたのは、良質な粘土が採取できるところだから。 もとから上敷免は瓦の産地であったそうです。 周囲の農家から田畑を借り上げて、採取した粘土が煉瓦となりました。

    01 旧煉瓦製造・仮設展示室_01

    周囲の田畑から原土を採取、調合した後に素地形成場へ運搬

    02 旧煉瓦製造・仮設展示室_02

    素地形成と仕上げ、乾燥 (窯の上に余熱で煉瓦を乾燥させる3階があった)

    03 旧煉瓦製造・仮設展示室_03

    窯詰、1部屋につき約1万8千個の煉瓦が詰め込まれた

    04 旧煉瓦製造・仮設展示室_04

    焼成、窯上の2階から燃料の粉炭を投入

    05 旧煉瓦製造・仮設展示室_05

    冷却、窯出

    06 旧煉瓦製造・仮設展示室_06

    出荷、運搬は船運、鉄道、トラックへと変わる

    07 旧煉瓦製造・仮設展示室_07

    歴史写真ギャラリー、煉瓦製造を指導したチーゼ氏が写るものも

    旧事務所と旧変電所

     日本煉瓦製造の施設、旧事務所と旧変電所も国指定重要文化財です。 旧事務所は明治21年 (1888) に建築された、洋風の木造平屋。 もとは指導のため来日したドイツ人煉瓦技師、ナスチェンテス・チーゼの居宅。 彼が翌年に帰国した後、会社事務所として使用されました。 現在 (2024年11月)、内部は非公開。 一時期は資料館であったように、修復され公開されることを願います。

     旧変電室は明治39年 (1906) 頃の建築。 旧事務所と同じくお洒落な外観で、こちらは煉瓦造りです。 工場の動力を蒸気機関から電動機にするため、 高崎水力電気株式会社より送電。 当時の深谷町に電灯が導入される、一年前のことであったそうです。

    旧事務所-見出_01 【01】一時期は資料館として公開されていた。 現時点 (2024年11月) は非公開で、展示資料は別所に保管されているそうだ。
    旧事務所-見出_02 【02】旧事務所の解説板。
    旧変電所-見出_01 【03】旧変電所。上に電線を通していた穴が複数。 現在、内部に機器は無いらしい。
    旧変電所-見出_04 【04】旧変電所の解説板。

    鉄道のレール

     旧事務所の北側には、専用鉄道に使われいたレールが残されていました。 外されたものが大量に積まれている。 断面寸法が、今の在来線で使われているものより小さいものです。 各レールには「SJC-92-KTK-1894」の刻印がある。 先頭のSJCは「Societe de Jhon Cokerill」の略らしい。 これは製造元であるベルギーのジョン・コッカリル株式会社のこと。 続いて92は、レールの形状や大きさ示す番号でしょうか (不明)。 KTKは発注会社、1894は製造年。 この発注会社の正体について後述。

    鉄道レール-見出_01 【01】旧事務所の北側にレールが大量に野積されている。
    鉄道レール-見出_02 【02】各レールには「SJC-92-KTK-1894」の文字。 SJCは製造会社、92は形状や大きさを示す番号?、KTKは発注会社、1894は製造年。
    鉄道レール-見出_01 【03】レールの断面は、大まかにこんなサイズ (不正確)。 今の在来線のものは、高さ153mm、底幅127㎜、頭幅65㎜らしい (50kgNレール)。詳しくはウィキペディアの軌条 [3] を参考。

     おわりに、この専用鉄道のレールの発注会社「KTK」とは。 当日にガイドして下さった方の話によると、甲武鉄道株式会社 [4] ではないかと。明治22年 (1889) に開業し、御茶ノ水を起点に新宿を経て八王子へ至る路線。 明治39年 (1906) に国有化され、現在のJR中央本線の一部となっている。 日本煉瓦製造の鉄道なのに、何故に発注会社が甲武鉄道なのか。 ガイドの方の推測では、この専用鉄道の敷設に関わった渋沢栄一の熟慮だと。 発注会社を大手の鉄道会社にした方が都合が良いので、 甲武鉄道の名を借りたという推測です。 ありえそうな話、渋沢栄一の手腕を語る、隠れたエピソードかもしれない。

    関連情報

    外部ウェブサイト

    [1] 深谷市ホームページ  :日本煉瓦製造のホフマン窯を含む施設、専用線跡など詳細を参考
    [2] 今昔マップ      :埼玉大学教育学部教授、谷謙二氏の新旧の地図を比較閲覧できる
    [3] ウィキペディア    :軌条について (レールの規格など分かる)
    [4] ウィキペディア    :甲武鉄道について

    少遠景の記録

    [5] 野木町煉瓦窯     :栃木県野木町、旧下野煉瓦製造会社のホフマン輪窯
    [6] 岩舟石運搬線     :栃木県栃木市、岩船山から渡良瀬遊水地へ繋いだ鉄道の痕跡を巡る!
    [7] 上敷免諏訪神社のケヤキ:深谷市、この専用鉄道の沿線にある神社