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金山城跡 ~国内最大級の山城~ (2015/11)
(写真:大手虎口)
1.はじめに
金山城は戦国時代に築かれた山城で、太田市の市街中心部の北に位置する金山(標高239m)のほぼ全域に築かれていました。
最盛期は、東西約3km、南北約4kmもの広さで、尾根伝いに城郭が続いていました。
金山城の特徴は、随所に残る復元された石垣です。
関東では珍しい石垣を多用した城で、曲輪の壁や土塁が石垣で組まれ、通路は石敷きになっています。
金山城跡で主に復元・再現されているのは、本丸跡から西尾根伝いに続く城郭の基部となる通路や石垣です。
今回の旅日記では、見学コースとしても整備されている尾根伝いに、西から東へ本丸までの様子をご紹介します。
以下は歴史の概略と、地図ですのでご参考ください。
【 金山城の歴史 】
今に残る金山城跡は、岩松家純が文明元年(1469)に築城したものが基礎となっています。
後の享禄元年(1528)からは、岩松氏の家老・横瀬成繁が下克上し、由良氏(横瀬から改性)が城主となり、
金山城は由良氏の代で全盛期を迎えました。
後の戦乱で、上杉氏、武田氏、北条氏の攻略に耐えましたが、天正12年(1584)に北条氏に降伏し開城しました。
天正18年(1590)の小田原征伐で北条氏の滅亡と共に金山城も廃城となりました。
昭和9年(1934)に群馬県で城跡としては初の国指定の史跡となりました。
平成6年(1994)から金山城の整備事業が開始され、発掘調査結果に基づいて
曲輪の石垣や通路など城郭が復元されました。
【 金山城跡の地図 】
2.西矢倉台西堀切~物見台下虎口
では、本丸まで尾根伝いに続く遺構を順に紹介していきます。最初は、駐車場から先の東屋から、
物見台の下にある堀切と虎口までです。
3つの復元された堀切(西矢倉台西堀切、西矢倉台下堀切、物見台下堀切)を通過します。
3つ目の物見台下堀切には、通路を守る石垣の虎口が復元されています。
【 補足 】
■曲輪(くるわ) :堀・土塁・石垣などによる区画地、尾根や傾斜地は平らに整地
■虎口(こぐち) :城や曲輪への出入口。攻防の拠点
■土塁(どるい) :曲輪や通路を守る施設、土を突き固め盛ったもの
■堀切(ほりきり):山城の堀、尾根を断ち切って曲輪を守る施設
(以降、写真が多くなるので、一覧で表示&ビュワーで拡大表示&閲覧するようにしています)
駐車場から尾根上を東へ進んでいく.駐車場一帯は西城の跡
本丸跡から西尾根上の遺構が復元されている.東屋近くの解説板
西矢倉台西堀切の跡.木橋で渡る
西矢倉台西堀切の跡.この堀切は石敷きで通路でもあった
堀切の先にある桟道へ通じる古い通路があったという
直線的に進む旧通路から、堀切内の通路へと変わっていった
西矢倉台の西下にある堀切跡.ぐずぐずしてるとスナイプされる
見学用通路は尾根上.堀切内を通らせ攻撃し易くする工夫が見られる
西矢倉台から東へ続く通路跡.斜面を整地して作っていた
木々に覆われて見晴らしはない.奥に堀切
岩盤を削った堀切と、通路は石垣で覆われた虎口で防御
尾根上には物見台跡.あそこからも存分に射掛けられただろう
3.馬場~月ノ池
次は、物見台下堀切から大手虎口の手前にある月ノ池までです。 馬場下通路を通って、馬場通路(西端に物見台がある)へ上がり、馬場曲輪の中を通り、大堀切と月ノ池の前へ出ます。 更に先には、金山城跡の最大の見所である大虎口が迫っています。
(以降、写真が多くなるので、一覧で表示&ビュワーで拡大表示&閲覧するようにしています)
物見台下堀切のすぐ先.木橋の下は竪堀、先も石垣の土塁で防御
物見台下堀切から竪堀までの構造
竪堀の先.通路上に兵士の詰め所らしき建物があったそうだ
馬場下通路の全体像.攻め手、守り手の想像が膨らむ!
馬場下通路から上がった所.奥に物見台.背後が馬場曲輪
通路全体像.北側は物見台まで石塁で覆われていた
復元された物見台基部の上に展望台が建つ
上から下への射撃は射程と威力が増したのだろうか?
下の堀切の土橋と石塁.ここを通る敵は格好の的だ!
物見台からの北側の眺め.昔の兵士は視力が良かったろうな
物見台から東.東に大堀切.3棟の建物があり柵に囲まれていた
馬場曲輪の平面図.上下2段の曲輪で、5回の造成があったという
馬場曲輪の全体像.ここで伝令や突撃用の馬を待機させたのだろうか
馬場曲輪の上から.堀の中央に障壁の石積みがある
本丸も近くなり、頑張って岩盤の尾根を掘り下げた場所だ
直線状から見た大堀切.左上が馬場曲輪、右上が三ノ丸
大堀切もある尾根の鞍部に造られた溜池.奥に大手虎口
立地や、構造、水を確保するための智恵と工夫
池、大堀切、馬場曲輪と、右上の尾根上が三ノ丸
4.大手虎口
次は大手虎口です。見どころが多いので、ここでは大手虎口だけの紹介です。 大手虎口は、本丸へ続く大手通路を固める金山城で最大の虎口で、 谷の地形を生かした壇状の曲輪と石塁で構成された大規模かつ威厳ある虎口です。 虎口から奥の南北の曲輪には、兵士達の詰める建物があったそうです。
(以降、写真が多くなるので、一覧で表示&ビュワーで拡大表示&閲覧するようにしています)
本丸への通路の防衛拠点.石垣の両側に曲輪がある
谷地形を利用し壇状の石塁で覆われている
大手虎口の全体像.大手通路を両脇の曲輪と土塁が囲む
金山城跡で最も城らしく見える場所.大規模な復元だ!
大手虎口の北側の曲輪.一部岩盤が露出.排水溝がある
大手通路や曲輪内に排水路や傾斜の工夫が施されていた
北曲輪の上段、露出した岩盤の上から
南曲輪には復元された井戸や再現された建物がある
井戸や再現された建物(武器庫)の説明について
上段にある再現された炊事小屋と武器庫
側面や正面の石塁から段差による波状攻撃が可能だったろう
5.日ノ池~本丸
最後は、大手虎口から先、日ノ池から本丸までです。
本丸の跡には、新田神社が建っていて、神社の参道でもある通路が、
御台所曲輪の跡を続いています。参道の途中には、巨木の大ケヤキが立っています
(参考・群馬県の巨木「
金山の大ケヤキ
」)。
山頂の本丸跡に建つ新田神社(明治6年の創建)は、新田義貞を祀った神社です。
新田義貞は、鎌倉時代の後期から南北朝時代に活躍した武将で、鎌倉幕府の滅亡(元弘元年・1333)と、
後醍醐天皇による建武新政の樹立の立役者となりました。
太田市に縁のある人物で、現在の太田市を含む上野国新田荘が拠点の所領でした。
(以降、写真が多くなるので、一覧で表示&ビュワーで拡大表示&閲覧するようにしています)
城跡というか、古代文明の遺跡のような感じがする
平安時代から存在し、戦勝や雨乞いの儀式が行われた神聖な場所
左奥、大手通路の南、南曲輪の最上段に休憩所とトイレ
戦闘で落城したのでなく、城主を人質に取られ開城したと
現在も発掘調査は続けられている
1/300の地形模型.南曲輪の最上段
休憩所前から見た太田市側の景色.天気が残念
本丸跡へ続く御台所曲輪は新田神社の参道の観
左奥が本丸跡に建つ新田神社.途中に大ケヤキ
一部が折れてしまったが、立派な枝張りの大ケヤキである
本丸跡に建つ新田神社.太田市ゆかりの武将・新田貞義を祀る
神社の東に展望地.砲弾?のオブジェがある
手前に栃木県の足利市.天気がよければ茨城の筑波山が見えるか
新田神社の西側に建つ御嶽山神社
御嶽山神社の西側に建つ梅若稲荷神社
6.おわりに
尾根伝いに続く金山城の遺構の中を、往事の兵士達の生活を想像しながら歩きます。
大手虎口をはじめとする立派な石垣には、城跡としての強い臨場感と威厳が感じられます。
関東平野を見下ろせる好展望台でもあり、物見台や、日ノ池の横にある休憩所、新田神社のある山頂からの
展望が特にお勧めです。
復元された遺構に近い最寄の展望台つきの駐車場からは、約20分で山頂の新田神社に着く距離です。
麓からのハイキングコースが整備されていて、山頂まで1時間から1時間30分くらいのコースが複数あります。
貴重な石垣の城跡の見学に、関東平野を見渡す展望に、ハイキングコースで軽く汗を流しに、
太田市近郊にお出かけの際は、金山城跡の立ち寄りをお勧めします。
写真は、太田市の名物である「焼きそば」と「焼きまんじゅう」です。
市内のお店「岩崎屋」さんで食べてきました。
「焼きまんじゅう」は群馬県のローカルフードですね。
味噌の効いた甘みのあるタレに、フカフカのパンのような生地で、
軽めの素朴な味わいです。「焼きそば」は、太面ですが柔らかく、
ソースの効いた真っ黒い見た目に反して、さっぱりした味わいでした。
お試しあれ。
■巨木・金山の大ケヤキ :金山城の大ケヤキの詳細
■巨木・市場の大ケヤキ :太田市の市街地に立つ巨木
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