第1調節池・北側 / 撮影地点 E01 (ハートランド城)
ハートランド城の概要
第1調節池の北西端、県道11号線沿に面した施設がハートランド城 [1] 。城を模したメルヘンチックな外観。 栃木市営の施設で、1~2階が遊水地に関する資料の展示。 3階は展望室となっています。 2階の常設展示には、遊水地および谷中湖の造成で廃村になった旧谷中村の資料。 また遊水地に関する企画展 (後述) なども開催されます。 施設名のハートは谷中湖の形からきていのでしょう。 そして遊水地がコウノトリの繁殖地となったことも後押しされたか、 令和4年 (2022)、恋人の聖地に認定されました。
常設展示・谷中村の資料
以下、ハートランド城の常設展示のうち、旧谷中村の資料です。 明治39年 (1906)、渡良瀬遊水地の前身である、足尾銅山の鉱毒を沈殿させる場所として、 強制廃村となった村。 廃村の反対には、晩年の田中正造翁が命がけで尽力したことは有名です。 村の大まかな範囲は、以下展示パネルの写真、左の地図を見てください。 谷中村は下宮村・内野村・恵下野村の3村の合併。 今の谷中湖全域とその北側を含む範囲が村域でした。 谷中湖は造成当初に、もっと広範囲になる予定でした。 しかし村人たちの歎願により、共同墓地、雷電神社跡、村役場跡など含む、 村の中心地が残された。 これにより、谷中湖は現在のハート型になっているのです。 恋人の聖地には、残酷な歴史も綴られています。
谷中村役場の机、正慶2年 (1333) の古い板碑
谷中村の雷電神社の解説
谷中村の延命院共同墓地の解説
古写真、谷中村の古澤家主屋、廃村のとき移動される家
古写真、谷中村の農家の蚕室だろうか
谷中村の古澤家の屋号の入った半纏
企画展示・100年前の遊水地
2024年10月時点のハートランド城で、 興味深い企画展「100年前の渡良瀬遊水地と今」が開催されていました。 概要は、明治~大正~昭和初期の古い地図を見て、 遊水地の成り立ちを知ろう、というもの。 かつて遊水地を囲む渡良瀬川、思川、巴波川は、現在と流路が違ったこと。 採石場のある岩舟山 (栃木市岩舟町) から鉄道が敷かれ、渡良瀬川を経て石が運搬されていたこと。 谷中湖および第2調節池が現在の形になった由来。 野木町煉瓦窯に粘土を供する煉瓦の産地であったこと。 三県境は渡良瀬川の旧流路など、様々なことが古地図から読みとれました。 以下、古地図の一部を紹介します。
大正11年 (1922) の渡良瀬川改修竣工図、赤線で改修の新流路が記入
大正11年 (1922) の渡良瀬川改修竣工図、北側に鉄道路線がある!
岩舟石、岩舟山から鉄道で遊水地、続いて渡良瀬川への舟運があった
昭和2年 (1927) 赤麻沼付近竣工平面図の一部、鉄道が記入されている
明治43年 (1910) 思川及赤沼平面図、谷中湖と第2調節池の形の由来が分かる
思川及赤沼平面図より、加筆、村の中心部を避けた形の谷中湖 (緑:谷中村域)
思川及赤沼平面図より、加筆、巴波川と思川の氾濫から集落を守る流路と調節池
遊水地は煉瓦の産地であったこと
明治36年 (1901) 思川平面図第1号 自落口至上生井より、現在の野木町煉瓦窯
三県境が渡良瀬川だったことが分かる
昭和2年 (1927) 第2号渡良瀬川筋 川邊村 藤岡町間 竣工平面図より、三県境
昭和29年 (1954) 渡良瀬遊水地平面図、渡良瀬川、思川、巴波川が現在の流路へ
関連情報
[1] 栃木市ホームページ:ハートランド城の詳細を参照
[2] 湿地資料館 :栃木市営の施設、渡良瀬遊水地の動植物の資料展示、撮影地点 (C05) [3] 藤岡神社のケヤキ :当地点 (E01) を含む同じ栃木市藤岡町の地区の鎮守