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  • 旅日記TOP丸森町の猫神様めぐり(TOP)猫神様が多い理由の考察

    丸森町の猫神様めぐり「猫神様が多い理由の考察」

    はじめに.参考文献について

     丸森町で猫碑が多い理由の考察について、「丸森町の猫碑めぐり」のほかに 「丸森町郷土史年表」を参考文献として調べました。 本資料より猫碑が多くつくられた時代、江戸後期から明治期にかけて、 養蚕業と災害についての出来事を抜粋します。

    丸森町郷土史年表 「平成改訂版・丸森町郷土史年表」、編集:丸森町教育委員会、発行:丸森町文化財友の会 (2019/03/29)

    第1の理由.基幹産業となった養蚕業の守り神

     丸森町は宮城県内の代表的な養蚕業の一大産地でした。 江戸後期の正徳元年 (1711)、八巻平エ門が養蚕業を起こし、同5年には生糸の産出が開始。 文政10年 (1827)、八巻権治が蚕種製造の技術を確立。 明治18年 (1885)、海外にも名が知られた佐野製糸場「錦栄館」が設立。 フランス製の製糸機械を導入し、年間3000貫もの生糸を生産していたそう。 他にも続々と町内に機械製糸場が造られていきました。 ちなみに、今でも養蚕を続けている農家があるそうです。

     養蚕業の一大産地となる丸森にとって、猫の需要は高いものです。 金の糸を生む大切な「お蚕さま」と繭を、油断ならぬネズミから守ってくれるから。 このため、養蚕農家で猫が大切に飼われ、供養碑がたくさんたてられた。 また、猫碑の一部には「猫神」と彫られているものがあります。 これは「蛇神」などと同様に、ネズミからの守護と養蚕業の繁栄を祈られた証。 猫神の需要も高かったのです。

    丸森町郷土史年表_養蚕業 江戸後期から明治期にかけての、養蚕に関する出来事の年表 (PDF)。 明治25年 (1892) に八巻雄三郎が設立した蚕種製造所「八雄館」、現在は同名の物産館がある。

    第2の理由.石の産地と土地柄

     丸森町の各地には「立石」や「的石」など、 古くから名前のつけれた大岩が複数あります。 阿武隈川沿いには大岩壁が露頭しているところもあるし、 愛敬院のある内川上流は、大岩に囲まれた渓谷になっている。 町内の各所で岩や石がよく見られるので、 昔から採石地としての歴史もあるのでは? と考えました。 現在も稼働中の採石場が複数ある。 その中で大張地区の大蔵山にある採石場では、 当地にしかない安山岩質の石「伊達冠石」を採石しているそうです。 見学してみたい。

     採石に関する古い記述は「丸森町郷土史年表」から見つけられませんでした。 見落としがあるかも。 とりあえず石の産地として仮定。 産地故に石が容易に手に入り、石工職人もたくさん居た。 他の地域より費用も安くなるはず。 このことが石碑が多い理由のひとつにならないでしょうか。 なお、猫碑の殆どは地元産の石材と考えられるそうです。

     丸森は猫碑を除く石碑の数も多いまちです。 ほとんどの猫碑は、多数ある石碑群の中に混じっている。 [猫碑20] のある石羽街道古碑群などは39基も並んでいます。 まち全体の石碑の数は、1000を軽く超えるでしょう。 神仏への信仰が篤かった時代、 何かあったら個人単位でよく石碑をたてる、 そういう土地柄なのかもしれません。

    第3の理由:多発する災害から復興の願い

     丸森町に猫碑が多い最大の理由は養蚕業でしょう。 しかし、この理由が他の地域に、あまり当てはまらない。 養蚕業は全国各地で盛んだったので、他にも猫碑の多いところはあるはずです。 「丸森町の猫碑めぐり」によると、 宮城県を除く猫碑が多い上位3県は、長野県11基、岩手県10基、福島県8基。 宮城県内の他市町村では38基。 そして丸森には74基。この異常な多さは何故か。 上述で考察した、石碑をよくたてる土地柄だからなんて…。 石碑がつくらた同年代、何か重要な出来事があったのかも。 そう考えて「石丸森町郷土史年表」を調べてみると、江戸後期に災害が多発していることが分かりました。

    丸森町郷土史年表_災害と猫碑 江戸後期から明治期にかけての、主な災害と猫碑の年表 (PDF)

     上記年表 (PDF) をご覧ください。 猫碑が数多くつくられた江戸後期、凶作や飢饉がよく起こっています。 原因は多発する洪水、長雨、冷害、旱魃など。 特に大飢饉が起きた天保年間と、文久から慶応にかけての被害は甚大です。 天保14年 (1843) には、瑞雲寺に餓死者の供養碑 (三界万霊塔) が建立されました。 阿武隈川の氾濫も多発。 寛政12年 (1800) から文化元年 (1804) には、丸森の町場替えを行った。 阿武隈川に近い町の中心部を、より内陸部へと移したのです。

     丸森は山間部が殆どを占める、稲作には向かない地域。 阿武隈川沿いの平地は、多発する洪水の度に不作となったでしょう。 こんな土地柄だから、阿武隈川の水運と漁猟、木挽 (製材)、炭焼、 そして特産品でもあった紙造り (白石和紙) などの産業があったそうです。 だから養蚕農家への転換と取り組みは熱心だったのでは。 しかし、相次ぐ凶作の煽りで、養蚕が上手くいかないときも。 心折れそうな苦しいときだからこそ、再起と繁栄の願いを強く込めて、 猫神の碑をたてたのでは。 こうして猫碑づくりの文化が根付き、 明治になって養蚕業が大成功したあとも続けられた。 う~ん説得力ありませんね…。

    おわりに

     以上が丸森町に猫碑が多い理由の考察でした。 養蚕をきっかけに猫をたくさん飼い始め、 猫を大切にし、土地柄ゆえに石碑をたくさん残した。 その土地柄とは、石の産地ゆえに供養や神様の石碑をよくたてること (仮定)。 災害が多発する時期が発端であったこと (仮定)。 少しは真相に迫れたでしょうか。駄目かな。 ともかく、先人との深い絆が感じられ、 個性豊かで愛らしい猫碑を巡れるのはうれしいことです。 丸森を猫神様の聖地としてくださった先人の方々、 猫碑を大切に守ってくださっている現町民の方々に感謝です。