第1調節池・谷中村史跡ゾーン 撮影地点・G07
足尾銅山鉱毒事件や渡良瀬遊水地の造成により強制廃村となった谷中村。 地点G07は谷中村史跡の代表的な場所で、神社跡、お寺跡、共同墓地の残る場所です。 訪れる際は、静かに見学しつつ、塚や石碑や墓碑に接近し過ぎて踏み荒らさないようにしましょう。
(ヨシ焼の後)
共同墓地の塚.クヌギ大木の傍らにある馬頭観音は明治13年 (1880) の建立.
塚の隅にある如意輪観音は特に古いもの.天和元年 (1681) の建立.
塚のクヌギ大木に近い地蔵.享保5年 (1720) の建立.
2基の庚申塔.左は万延元年 (1860)、右は享保9年 (1724) の建立.
享保9年 (1724) の建立の庚申塔
3基並ぶ十九夜講.右側は左端は天保13年 (1842) の建立.
(ヨシ焼前)
共同墓地の周囲の草は、ヨシ焼き前に刈り払われる.延焼を防ぐ為だ
雷電神社の塚の前にある掲示板に写真が張ってあった
明治37年頃の洪水の写真らしい.神社の周囲は広範囲に水没している
廃村後の荒れた神社.物悲しい雰囲気だ
雷電神社の塚の上から見た地点G10.村の屋敷が数軒あったらしい
延命寺跡にあるポスト.「谷中村遺跡を守る会」作成の資料が入っている
ポストの中には地図があった.69もの屋敷跡が示されている!
地図の続き.史跡保全ゾーンにある茂み、土盛は、屋敷があった跡なのだろう
墓地から谷中湖周遊道の間にある窪地は堀の跡のようだ
(ヨシ焼の後)
ヨシ焼の後日.共同墓地の周囲も焼けていた
地点G03の広場の方向.ヨシや草が無くなると広く感じる
雷電神社跡から.地点G08の雷電橋の方向.通路と雑木林の近くはヨシが残る
共同墓地の塚の前.墓碑の立つ塚は殆ど焼けていなかった.まだ新しい供花
共同墓地の奥.塚から少し離れた仏の石塔の周囲は焼けている
塚から少し離れた所にある如意輪観世音菩薩の十九夜講石仏
塚から少し離れた所にある不動明王の石仏と庚申塔
草に隠れていた石塔を失った土台が現れていた.墓碑か? 寂しい風景だ
塚に並ぶ石仏.飛び火したのだろうか? 疎らに焼けていた
(雪の日)
1月末の雪の日.共同墓地も雪に包まれた
奥に雷電橋(地点G08).雪は午後近くから雨となりあまり残らなかった
普段から寂しい雰囲気の場所であるが今日は一層に感じる
雪のせいか、今までより墓碑の存在が強く感じられた
(雪の日)
墓地の塚から少し離れた庚申塔と不動明王
庚申塔と不動明王の真向いにある十九夜講石仏
墓地の塚に佇む石仏の一つ.私もこの姿勢で居るのが好きだ
墓地の塚に佇む石仏の一つ.見つめ返されているような気がした
雷電神社跡.少し高い土盛の上にある.奥にベンチが
雷電神社跡から北側の眺め.地点G08の雷電橋が見える
雷電神社跡から見た共同墓地.冬はいっそう寂しい雰囲気の場所だ
共同墓地の塚.日差しは穏やかで風の冷たい日だった
ここへ来ると色々と考えさせられるものがある
塚を囲むように古い墓石が並んでいる
共同墓地の塚.もうすぐ草刈りしないと
彼岸花が花を咲かせている.ここは群生地だったようだ
今年、陛下が遊水地を訪れ、更に正造翁の直訴状を読まれた.得難い供養だ
共同墓地立つ掲示板の内容
雷電神社の掲示板の内容
雷電神社跡.奥は地点G08、G10の辺り
現代でも公害により住める環境を失うことが続いている.成長より自制の時代か
延命寺跡には鐘がある.ポストには有志の谷中村に関わる資料が納められていた
共同墓地の塚.定期的に草刈りしないと埋もれてしまう
共同墓地の墓碑群
3/17のヨシ焼きの後.共同墓地の塚
如意輪観世音菩薩の十九夜講石仏.安産を祈願したのだろう
共同墓地も火の手が回った.石仏や墓碑の損傷が心配される
共同墓地の近くに立つ木
共同墓地の塚.日差しの暖かい日だった