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    鶴ヶ城の桜

    巨木の写真

    撮影日 2013.04.20 【01】会津を代表する名所にして国指定史跡の鶴ヶ城.4月下旬の城内は桜花絢爛. 鶴ヶ城の桜01
    【02】 鶴ヶ城の桜02
    【03】 鶴ヶ城の桜03
    【04】 鶴ヶ城の桜04
    【05】 鶴ヶ城の桜05
    【06】 鶴ヶ城の桜06
    【07】 鶴ヶ城の桜07
    【08】 鶴ヶ城の桜08
    【09】 鶴ヶ城の桜09
    【10】 鶴ヶ城の桜10
    【11】 鶴ヶ城の桜11
    【12】 鶴ヶ城の桜12
    【13】 鶴ヶ城の桜13

    巨木の詳細

    巨木の名前 鶴ヶ城の桜
    樹種 ソメイヨシノ(染井吉野)
    幹周
    樹高
    推定樹齢 大木は明治41年(1908)植樹[2]
    特徴 本丸内や城郭外縁の桜並木
    保護指定 鶴ヶ城(若松城跡)は国指定史跡
    所在地 福島県会津若松市追手町
    所在施設 鶴ヶ城(史跡・若松城跡、鶴ヶ城公園)
    撮影日・状態 2013.04.20 : 約1000本[2]という城郭や天守を囲む満開のソメイヨシノは御美事
    アクセス
    ■会津若松IC(磐越自動車道)
      距離:約6km
      経由:国道121-県道49-国道118-市道
         (西出丸駐車場までの場合.北出丸から先は一方通行)
    電車 ■会津若松駅(会津鉄道・JR只見線)
      距離:北出丸に面した太鼓門まで約2.5km
    ■西若松駅(会津鉄道・JR只見線)
      距離:西出丸に面した西中門まで約1.5km
    引用元 [1]巨樹巨木林データベース :鶴ヶ城公園の巨木も記録されている
    [2]会津若松市・公式サイト :市の概要や歴史を参照
    [3]会津若松観光ビューロー :鶴ヶ城の概要・歴史・園内図を参照
    近辺の巨木 石部桜 :武家の館跡に残る会津五桜の1本.鶴ヶ城(二ノ丸・東口)から約4km.

    巨木と雑記

     会津若松の鶴ヶ城へ訪れた目的は、国指定史跡である城郭の遺構や天守閣、そして城内を埋める桜の花。 巨木を期待してのことではありませんでした。 紹介する写真にも巨木の写真はありませんが、ここは福島を代表する名跡。 福島県の巨木巡りの記録に追加することにしました。
     訪問時はゆっくり見学する時間の余裕がなく、二ノ丸から本丸の天守までを足早に往復したのみ(東口駐車場を利用)。 写真の枚数は少なく、各所にある興味深い遺構や、天守閣や茶室・麟閣の見学もできませんでした。…無念。 再訪時は三ノ丸跡に立つ県立博物館も見学したいものです。
     鶴ヶ城内には大木が多く、幹周3mを超えるような巨木も複数ありそうな様子。 ちなみに、環境省の巨樹巨木林データベース[1]には、幹周5m以上のケヤキの巨木が3本登録されていました。 再訪するときは、隅々まで見学し、城内に残る巨木の写真もしっかり収めたいところです。

     以下、鶴ヶ城の歴史の概略です。ご参考ください。[2・3]

    【 蘆名氏-鶴ヶ城の前身・黒川城 】
     鶴ヶ城の前身は、至徳元年(1384)に蘆名直盛によって築かれた東黒川館とされます。場所は現在の三ノ丸跡の周辺で、当時の会津若松は黒川と呼ばれました。 蘆名氏は鎌倉幕府の有力な御家人、相模の三浦党から興った一族。 蘆名氏は会津を拠点に第16代・盛氏のとき最盛期を迎え、奥州では伊達氏と並ぶ戦国大名へ(天正年間の頃)。 この頃には現在の二ノ丸や本丸の城郭は造られていたようです。

    【 蒲生氏-城下の整備と鶴ヶ城の誕生 】
     天正17年(1589)、伊達政宗の進攻により会津の蘆名氏は滅亡。 しかし正宗の会津の支配は1年余り。豊臣秀吉の奥州仕置により伊達政宗は領地の減封に。 翌年から会津には伊勢松坂(三重県)から蒲生氏郷が転封となりました。 氏郷は、城郭の改築と城下町の建設を進め、黒川を若松と改め、城の名を鶴ヶ城と命名。 また、城下では市を開かせ、上方から多くの職人や技術を取り入れることで、殖産興業を促進。 氏郷は現在の会津若松の基礎を築いた武将といわれています。

    【 加藤氏-現在の鶴ヶ城の完成形へ 】
     蒲生氏郷の没後、慶長3年(1598)に上杉景勝が越後から会津へ転封。 この時、城内に建てられた上杉謙信の廟所が、現在の上杉謙信公御堂跡。 後に景勝は豊臣秀吉の死後、関ヶ原の合戦で西軍に付いたため、徳川家康の命で慶長6年(1601)に景勝は米沢に減封となりました。
     江戸時代に入り、慶長6年(1601)に蒲生氏郷の子・秀行が宇都宮から転封。 二代の忠郷が没した後は嫡子なく、寛永4年(1627)に伊予(愛媛)から加藤嘉明が会津へ転封。 寛永16年(1639)に二代の明成が城を大改築。 西出丸と北出丸を増築し、天守閣を白亜に輝く五層に改築。 本丸の大手口を二ノ丸から通じる廊下橋から変更。 北出丸から椿坂、太鼓門(大手門)、帯郭、鉄門を経て本丸へ至る、より堅牢な順路へ。 現在に通じる鶴ヶ城の姿が整いました。

    【 松平氏-最後の城主と会津戦争 】
     寛永20年(1643)に徳川秀忠の庶子である保科正之が最上から転封。 三代目の正容から、幕府から松平姓と葵の紋を許され会津は徳川親藩となり、九代目の松平容保が最後の藩主となりました。
     慶応3年(1867)に薩摩藩をはじめた雄藩の連合が朝廷を掌握、 新政府の樹立と倒幕を宣言(王政復古の大号令)。 慶応4年、新政府軍と旧幕府軍との鳥羽伏見の戦いが勃発。戊辰戦争のはじまり。 同年に江戸城が新政府軍に落ちた後も、旧幕勢力の主力の会津藩は抗戦を続行、戦線は東北へ。
     会津藩は奥羽越列藩同盟と共に新政府軍と抗戦。 やがて進撃する新政府軍に、慶応4年8月に会津城下は包囲されます。 約1ヶ月に及ぶ篭城戦の末、9月22日に松平容保は降伏を決意し開城。 この開城に至るまで堅牢な鶴ヶ城は、新政府軍の侵入を防ぎきったそうです。

    【 近現代の鶴ヶ城 】
     明治7年(1874)に天守を始とした城内の建造物は破却。 明治23年(1890)に松平家へ払い下げ。 明治32年(1899)若松市の誕生。 明治41年(1908)に会津に第13師団・歩兵65連帯の設立を記念に、約1000本のソメイヨシノが植樹。 鶴ヶ城は若松市の市有となり昭和9年(1934)に国の史跡に指定。 昭和40年(1965)に天守閣が再建。