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    毘沙門天のスギ

    巨木の写真

    毘沙門天のスギ(2015.11.30) 【01】毘沙門天のスギ:足利市で最大のスギ.本堂の向って右奥に立つ 毘沙門天のスギ01
    【02】北側① 毘沙門天のスギ02
    【03】北側② 毘沙門天のスギ03
    【04】北側③ 毘沙門天のスギ04
    【05】北側④ 毘沙門天のスギ05
    【06】北側⑤ 毘沙門天のスギ06
    【07】北側⑥ 毘沙門天のスギ07
    【08】西側① 毘沙門天のスギ08
    【09】西側② 毘沙門天のスギ09
    最勝寺と周辺の様子(2015.11.30) 【01】最勝寺の山門:林道から続く階段の先.仁王像が素晴らしい 毘沙門天のスギ01
    【02】山門の先 毘沙門天のスギ02
    【03】本堂 毘沙門天のスギ03
    【04】解説板・本堂 毘沙門天のスギ04
    【05】足利七福神 毘沙門天のスギ05
    【06】広場① 毘沙門天のスギ06
    【07】広場② 毘沙門天のスギ07
    【08】林道① 毘沙門天のスギ08
    【09】林道② 毘沙門天のスギ09

    巨木の詳細情報

    巨木の名前 毘沙門天のスギ 幹周/樹高 7m / 29m
    樹種 スギ(杉) 保護指定 足利市指定天然記念物年
    推定樹齢 600年 所在地 栃木県足利市大岩町
    撮影日/天候 2015.11.30 / 曇 / 大スギの根元付近は斜面と藪で近づけない
    アクセス
    ■北関東自動車道・太田桐生IC:距離約9km
    ■北関東自動車道・足利IC  :距離役11.5km
    電車 ■足利駅(両毛線):徒歩・約8km
    ■山前駅(両毛線):徒歩・約5.8km
    ( 最勝寺の周囲は路線バスの運行範囲ではない.タクシーかマイカー利用がベスト)
    備考 最勝寺には路線バスは運行されておらず、最寄駅からも遠い山中である。 このため、歩くこと自体や、周辺の山への登山などが目的でない限り、アクセスにはタクシーやマイカーの利用が現実的。 私は行道山への縦走が目的で、経由地点の一つとして最勝寺へ訪れてみた。詳細は以下の登山記録をご覧ください。
    近辺の観光 ■公式・観光情報:足利観光協会(足利学校など)
             あしかがフラワーパーク
    ■travel.jp   :鎌倉時代から続く古刹と輝く黄葉の大イチョウ・栃木「鑁阿寺」
             栃木県で最初の日本遺産「足利学校」学びの精神を今に伝える日本最古の学校史跡
             栃木県の低山ハイキング「行道山」古刹を巡る展望の尾根
    ■少遠景・旅日記:足利の史跡巡り~足利学校と鑁阿寺~
    ■少遠景・登山録:織姫神社から行道山への縦走(最勝寺を経由)
    近辺の巨木 鑁阿寺の大イチョウ /  竜泉寺のカヤ /  あしかがフラワーパークの大フジ

    巨木の地図

    巨木と雑記

    毘沙門天のスギは、足利市の大岩山にある大勝寺の御神木であり、市内で最大の杉。 幹の南側は、2つに分かれており、これは落雷によって裂けた跡だと考えられています。 落雷による損傷を受けていますが、先端の梢も青々と茂り、樹勢は悪くない様子。 市内を代表する杉の御神木として、末永く立ち続けてくれることでしょう。

    栃木県の南部に位置する足利市。市街地は渡良瀬川を中心にして広がっています。 ここは、室町幕府を開くに至った足利氏の本拠地であった歴史ある地域。 足利氏の居館であった場所に残る鑁阿寺(本堂は国宝)や、 日本最古級の学校史跡とされる足利学校(日本遺産の構成文化財)が有名です。

    足利市の北部の一帯は、標高は低いながらも600m台をピークとした山間部。 市街地まで伸びた尾根からは、気軽なハイキングコースして、親しまれており、 山域に点在する城跡や寺社なども魅力です。 市街地の中心部に近い織姫神社から北へ、 更に市街地を見下ろせる両崖山から北に、大勝寺のある大岩山があります。 ハイキングコースの詳細は登山記録 「行道山01」 をご参照ください。

    大勝寺は大岩毘沙門天と呼ばれ、奈良の信貴山、京都の鞍馬山とともに 日本三毘沙門天の一つ。 伝承によると、創建は天平17年(745)、 行基菩薩が神託(夢のお告げ)により、この地に金の神像を祀ったのが始まりとされる古刹です。 現在の本堂は、宝暦12年(1762)の再建された古建築。 平成5・6年度に実施された解体修理と、発掘調査では、 平安時代の末期に遡る遺物が出土しており、当時からこの堂字が存在していた ことが確認されています。