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浄蔵寺の大イチョウ
巨木の写真



















巨木の詳細
巨木の名前 | 浄蔵寺の大イチョウ | 幹周/樹高 | 11m / 28m | |
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樹種 | イチョウ(公孫樹) | 保護指定 | 堀口町指定天然記念物 | |
推定樹齢 | 300年 | 撮影日/天候 |
2015.11.21 / 晴 2010.01.03 / 晴 |
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所在地 | 群馬県太田市堀口町(浄蔵寺) | |||
アクセス | ||||
車 |
北関東自動車道・太田桐生IC:12.2km 北関東自動車道・太田藪塚IC:14.6km 関越自動車道・花園IC :20km 関越自動車道・本庄児玉IC :19km |
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電車 |
最寄駅は木崎駅(東武伊勢崎)で約3km。 バス利用の場合は、太田駅の北口から矢島タクシーのコミュニティバス「そよかぜ・尾島線」 に乗車しバス停「尾島一丁目」で下車。約30分か? |
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備考 | 墓地の近くなので騒いだりせず行動を慎みたい | |||
近辺の観光 |
■公式観光情報 :太田市観光協会 ■たびねす :国内最大級の山城・群馬県「金山城」関東では珍しい石垣の山城 ■少遠景・旅日記:金山城跡 |
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近辺の巨木 | 金山城の大ケヤキ / 市場のケヤキ |
巨木の地図
巨木と雑記
太田市の南部を流れる利根川の近く、支流の石田川と早川に南北を挟まれた地域に浄蔵寺はあります。
寺の創建は、鎌倉時代に太田市を含む上野国新田荘を拠点とした新田氏によるものと云われています。
五智堂の後ろには墓地に囲まれて、群馬県最大の大イチョウが立っています。
畑や民家の広がる平地で、他に高い物や遮蔽物がなく、強風や落雷の直撃を受けてきたと思われます。
11mもの幹周だけあって流石に見応えのある立派な巨木ですが、幹周から想像するようなボリュームが幹の中心部分にありません。
それは、かつて落雷を受けて主幹を損傷し、根本から立ちがってきた支幹が巨大化して現在の姿になった為のようです。
枝の量がとても多く、葉を茂られている時期に訪問すると、
根元から上部まで全身をびっしりと覆われた姿を見ることができます。
【 浄蔵寺・由緒 (現地解説板より)】
浄蔵寺は、駒形山宝珠院といい、高野山真言宗に属し本尊は地蔵菩薩である。
寺の創建は、鎌倉時代に新田氏の開基と伝えるが詳らかでない。
開山中興を慶順といい、寺地四町九反余を有する密教寺院として檀徒の信仰を集め、
法灯・堂舎がよく御持された。
明治7年に本堂を利用して「惟勤学校」が開設され、学制初期の地域初等教育に貢献した。
本堂は、校札に
「宝暦5年(1755)、当寺十一世・専秀隆勝が、八世・弘賢以来、四十有余年にわたる
先住の遺志を継承し、檀家の協賛を得て、堂字の建立を果たした」
とあり、建築は、当村の中村平右衛門朝久、安養寺村の橋本半右衛門相久らが携わった。
以後、安政3年(1856)に十六世・漂栄のとき、
茅葺を本瓦に葺替え、明治38年(1906)に十九世・義隋祐範の代に、
屋根葺替えが行われ、その後に小修理が加えられ現在に至る。
当村鎮守加茂宮の南に、新田の一族堀口氏の館跡があり、
美濃守貞満の建立と伝える真言宗・正覚寺があったが、早川治水の築堤によりその寺域を失い、
昭和43年に浄蔵寺を合併、当寺に墓所を移し不動堂を建立した。
浄蔵寺の西方一帯の低地を「字ザラメキ」といい、かつて利根川の流路であった。
ここから鎌倉時代中期の板碑が出土しており、そのうち文永11年(1274)の
銘文に、大檀那沙弥西願をはじめ、源・藤原・菅原・高麗姓などの結衆の名が見られ、
浄蔵寺および新田・堀口氏にかかわる史料として重視されたが、
現存せず拓本を残すのみである。
寺伝に、元弘3年(1333)5月、新田義貞が鎌倉攻めのとき、
利根川の渡河をまえにして、義貞の軍隊が当寺に兵馬を休め、
戦勝を祈願したことから、駒形山を称するようになったという。
境内に聳える大銀杏は、樹齢400年といわれ、駒形山の森を偲ばせるとともに、
浄蔵寺の変遷を物語っているかのようである。
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